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●リレー連載映画レヴュウ/第十三回
『悪と暴力の向こう側  〜ミヒャエル・ハネケについて〜』
ジャケット

■ 言葉を発しても近づけない 理解できない 小さな断片こそ現実でありそれが客に開かれる(ハネケ)
「セブンスコンチネント」・「ベニーズビデオ」・「71フラグメンツ」(1994)《感情の氷河化3部作》と呼ばれるこれら初期作品で提示されるものは、どれもコミュニケーションの不在から暴力へと導かれる過程である。
 家族・社会・民族・現実など――上記三部作の登場人物たちは、いずれにおいてもこれらとの関わりを欠いている。その欠落が様々な形の悲劇となってスクリーンに現れる。

セヴンスコンチネントより『セブンスコンチネント』では「社会」「現実」との断絶(だから主人公達は存在しない七番目の大陸を夢見て、最終的に自殺する)
『ベニーズビデオ』では「家族」「人間」「リアリティ」との断絶。(ベニーは、家族とも女の子とも通じ合えず、また彼にとっての現実とは、彼の持つビデオカメラを通じたモニター越しの光景のみである)
『71フラグメンツ』では上記の問題に難民の問題が加わる。
 一人亡命したものの言葉の通じない難民少年、娘と通じ合えない老人、銀行を襲撃したのち自殺する大学生、あるいはテレビに映されるサラエボ(当時、ボスニア内戦が背景にある)などなど、これら登場人物たちの生活が、71の断片に分割されて組み合わされる。
 中でも印象的だったのが――
■孤児院を訪問する中年夫婦がいる。彼等は幼い女の子を引き取る。いくらか慣れた頃、家族三人で一緒に動物園に行く。プールの前を通ったとき母親が「ほら、可愛いでしょう」と、指差す。飼育係がオットセイに餌をやっているのだ。ユーモラスな姿は子どもたちにも人気だ。
しばらく二人は並んでその光景を見やっている。やがて母親の手が、 小さな娘の肩の上に触れる。女の子は視線をプールに向けたまま、そっとその手を払いのける。
71フラグメントより
 これは『71フラグメンツ』の1シーンだが、この孤児の子にとって、差し伸べられた手は愛情の意味を持たなかった。同情からであれ、悪意からであれ、コミュニケーションの不在はさまざまなレベルの暴力を生む。この過程は、これら三部作でさまざまにレベルを変えながらも示される。
 
 続く『ファニーゲーム』では、ハネケの目はもっと明確な暴力へと向けられている。すなわち、先に述べたような、「一方が一方に強制・侵入する暴力」のみに着眼点がおかれ、コミュニケーションというものは、ここではむしろ茶化されて最初から問題にもなっていない。それを「ファニー」というところに、ハネケの皮肉さが見て取れるようだ。
 当レビュー第二回で、前原君が「パウロは映画の外部へはみ出した」と指摘したが、確かに映画の最初から最後まで、被害者の家族と侵入者たちとの会話は公平に成立していないのである。正確には、会話による共感というものが全く存在しないのだ。
 例えは悪いが、それは人間と家畜との関係にも似ている。生殺与奪の権はパウロとトムに不動であり、家族の絶望的な足掻きは、まったくの無駄に終わるしかない。そもそもリモコンの巻き戻しボタンを使って時間を戻すような連中を相手に一体どのような対話が成り立つと言うのだ? 

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