結城一誠過去作品展示
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『ファニーゲーム』:1997年:108分:オーストリア
ジャケット

+INTRODUCTION+
 2001年のカンヌ映画祭でグランプリを獲得したミヒャエル・ハネケ監督の97年の作品。
 そのあまりにも挑発的で暴力的な内容に世界各地で物議を醸した衝撃の問題作。
 監督自身、暴力が不快なものであることを再認識してもらいたかったというだけに、観た人間は不快と憤慨を覚えずにはいられない内容。

+SYNOPSIS+
穏やかな夏の午後。バカンスのため湖のほとりの別荘へと向かうショーバー一家。車に乗っているのはゲオルグと妻アナ、息子のショルシ、それに愛犬のロルフィー。
別荘に着いた一家は明日のボート・セーリングの準備を始める。
そこへペーターと名乗る見知らぬ若者がやって来る。
はじめ礼儀正しい態度を見せていたペーターだったが、もう一人パウルが姿を現す頃にはその態度は豹変し横柄で不愉快なものとなっていた。
やがて、2人はゲオルグの膝をゴルフクラブで打ち砕くと、突然一家の皆殺しを宣言、一家はパウルとペーターによる“ファニーゲーム”の参加者にされてしまう。

引用元:ALL CINEMA ONLINE
監督
ミヒャエル・ハネケ
脚本
ミヒャエル・ハネケ
撮影
ユルゲン・ユルゲス
出演
スザンヌ・ロタール
ウルリッヒ・ミューエ
アルノ・フリッシュ
フランク・ギーリング
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●リレー連載映画レヴュウ/第二回 『ファニーゲーム』



 まず『映画(大文字の映画)』とは、作品の内容や中身に左右されるものではない。ましてやテクニカルな側面、テクノロジーによるものでもない。視聴する作品が時代とともに変化し増えていく中で形成され発明されたエンターテイメントに於ける『映画』という一つの観念である。では何をもって『映画』とするか、常に不確定で決定しえない危うさを孕んだこの幻想とも言える観念を支えてきたのは一体何か。
『映画』とは「固有の映画体験を育てることで産まれるもの(小文字の映画)」ではないだろうか。劇場映画にビデオやDVD、テレビ番組にニュース等、これらになんら区別なのない映像体験を経てきたならば、彼にとって『映画』は存在しない。
 彼の前には市場経済論理の中で均一にインデックスを付され分類された無数の”コンテンツ”が広がっていることだろう。
 映像作品を観る、という出来事の中で「映画を観る」という差異、区別、特権を与え与えられた経験をしえたか否か。「映 画体験(小文字の映画)」が『映画(大文字の映画)』を作る。
 こう言えば分かるだろうか。俺にヴァレンタインデイは存在しない。
『映画』が詰まらなくなったのではない。それは「映画体験」が詰まらないのだ。『楽しい映画』はこの世の中に存在しない。「楽しく観る映画」だけが存在している。別段そんな特別な「映画体験」なんてなくったってあの映画は楽しかっただと?OK、じゃあ映画とテレビ番組の区別を教えてくれ。予算や機材からくるヴォリュームだったり、いわゆる見た目の違いか?それは”映画っぽい”ってことだろう?”ぽい”って了解は、すなわち彼の見てきた感覚の蓄積で形成されてきたものだ。
映画が観たいなら「映画を観よう」って気で見てくれ。別段映画館へ行かなくてもできることだ。コツは油臭い食い物と珈琲だ。分かってる。人によってはコーラだろうが俺は炭酸が飲めない。ピザを頼め、ビデオをセットしろ。さああ映画を観るぜえッって気分で。映画を観るという特別な時間を作ることで初めて映画は存在しうるのだ。俺の映画体験はいづれも幸せな時間を過ごせてきた。まあ、こいつは自慢だ。好きな映画は?と聞かれたらこう応える。
 「君と観た映画さ」
 繰り返し言おう。俺にヴァレンタインデイは存在しない。
 ん。分かってる、よっく分かってる。皆まで言うな。OK、そろそろ行こうか。



■■
 オープニングシーンでイントロクイズが二つ出題される。
最初の答えはピエトロ・マスカーニ、Cavalleria Rusticana よりtu qui santuzza 。
「また、小説では血生臭い結末に至るまでリアルに描写されているトゥリッドゥとアルフィオの決闘シーンは、この戯曲では舞台裏で行われるように変更されている。
WIKIより抜粋)」
 タイトル「Cavalleria Rusticana(田舎道を騎士が行く)」中心人物らを乗せた車が木々を抜けアウトバーンをひた走る絵にマッチしていること、そして、「血生臭いシーンは舞台裏」というのが挿入した理由だろう。本編の作りもそうなっている。
 次に掛かるのがこのオペラ。
 ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、やはりオペラのアタランタ よりcare selve(さわやかな森)。
「台本作者は不明だが、ベルサリオ・ヴァレリアーニ(Belisario Valeriani)の1715年の台本によっている。国王ジョージ二世の王子であるウェールズ王子の結婚の祝典の為に作曲された歌劇である。このウェールズ王子は貴族オペラと言うヘンデルの対抗馬に当たる劇団をそもそも創設した人物で,その(創設の)理由もヘンデルの庇護者でもあった国王ジョージ二世と王子がとても仲が悪かったと言うのが原因と言うのである。従ってウェールズ王子は本来ならばヘンデルの(仕事の上での)敵のパトロンと言う事になり一見するとヘンデルの行為は不可解である。
 しかもオペラの作曲依頼はウェールズ王子の方から来ていると言う事である。実際の事は勿論知る由もないが貴族オペラの運営に嫌毛がさしたと言う事なのだろうか?しかし初演の時にはウェールズ王子は臨席してない。この辺りはジョージ二世が初演に臨席していたからだろうと言う話も聞いた事がある。終幕の場での大掛かりな舞台上の仕掛けもあって初演は好評だったらしい。 (引用元)」
 幾つか件のオペラについて読んで回ったが観想、情報として「おべっかもので退屈である」、「劇場内で花火を上げたりと舞台装置自体の面白さ」といった内容のものが散見された。式典用に上げられたオペラなのだそうで、それゆえの退屈さと祝典としての派手さが特徴のよう。「careselve(さわやかな森)」と劇中の木々を抜ける絵のマッチング、「舞台装置の大掛かりな仕掛け」という特徴と本作ファニーゲームの類似性から挿入されているのだと思われる。
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