例えば、物凄く長い長い長編映画がやっていて、そこに途中入場したとする。
もう始まって一時間以上経ってる筈なんだが。
で、座って腰掛けてスクリーンを見る。
勿論、最初は訳がわからない。
一体なんの話なんだか、主人公は誰なんだか、どんなジャンルなんだかも検討がつかない。
映画館だから、これどんな話よって中々聞けない。
パンフでも買いに戻ろうか、とか。
まあ、そうこうしながら眺めているうちに、なんとなく筋が見えてきた気がする。
一時間も経って入場したんだからもう中盤かな、とか。
せめて終わりは見れるかな、とか。
でも君は途中入場と同じく途中退上を余儀なくされる。
理由はどんなんでもいい。
物凄くクダラナイ理由でも、ことさら大げさな理由でもなんでもいい。
納得行く理由があるにせよないにせよ、君は来たとき同様、その中途半端な映画に後ろ髪引かれながら、映画館を後にすることになる。
オープニングから観たかったが観れなかったんだから、せめてエンディングくらい観たかったな、って思うかもしれない。
けれども、多分どれだけ君が居座ったところでこの映画は幕を下ろさない。
そこで掛かっている映画は物凄い尺がある。
君はそのほんの少しを覗き見ることしかできない。
その僅かな情報から全体の話を想像するのは勝手だが、大体外れていることだろう。
もしかしたら、人生を選択することも疑うことも必要ないのかもしれない。
よりよい生活、よりよい自分てのを目指すのを放棄してしまえればよいのだろう。
かと言って現状いかに在るかだなんて風に何事も分析しすぎるのは自家中毒へまっしぐらだし、何故そう在らねばならないかだなんて実存的問いかけって奴も虚無感や無力感を呼び込むだけでしかないのだろうし。
学校ないし家庭もないしヒマじゃないしカーテンもないし花を入れる花ビンもないし嫌じゃないしカッコつかないし。
耐えて、足掻いてそうして繰り返していくうちに現実からは遠のき岸辺に戻るだけの体力を残すこともなく。
ガタカでそんなシーンがあったよな。
『この映画は現実から逃避する人間の姿を描いてる。現実を生きず、夢想にふけってばかりいるとこことに大きな穴があいてしまう。その穴を埋めるために人は何かに依存する。コーヒーやタバコ、テレビや麻薬など。何でもありだね。穴を埋めるために始めたことでさらに穴を広げ、最後には自分自身がその穴に飲み込まれてしまう』(DVD版監督自身によるコメンタリーより)
『人間はなんで地獄のさらに地下まで作ってしまったのか。それは人生を生きるよりも、夢を生きることを選んでしまったからだ』(ヒューバート・セルビー・Jr著「夢へのレクイエム」”新版によせて”)
『この映画は〈愛〉について描いている。より具体的に言うと、愛が誤った方向に進んだらどうなるかを描いている。この物語の本当の悲劇は、愛がどの人間を救うにも十分ではないこと』(劇場版パンフレット監督へのインタビューより)
データ
ヘンリー・ミラー「北回帰線」1934年
ウイリアム・バロウズ「ジャンキー」1953年
ハンター・S・トンプソン「ラスベガス71」1971年
ヒューバート・セルビーJr「夢へのレクイエム」1978年
ブレッド・イーストン・エリス「レス・ザン・ゼロ」1985年
ダグラス・クープランド「ジェネレーションX」1991年
アーヴィン・ウエルシュ「トレインスポッティング」1993年
電気グルーヴ「N.O.」1994年
チャック・パラニューク「ファイトクラブ」1995年
レディオヘッド「OKコンピューター」1997年
さて、相変わらず鈍足でスタミナ切れつつもなんとか繋いだバトンだ。
頼むぜEJ。
落とさないようにしっかり握っていておくれよ。
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