少し長めの休暇を経て、いよいよこの企画も最後の週を迎えることになったわけである。寄稿者たちはそろいもそろって映画好きなので、「好きな映画を三本選んでレビューする」という単純な形式でも、それぞれ個性が如実に出たものになったのではないだろうか。中にはこれから名が売れてくる人間もいるだろうし、そういう意味でも面白い企画でした。
振り返ってみれば自分は『未来帝国ローマ』『恐怖!奇形人間』と、決して褒めらたわけでもないB級映画ばかり取り上げてきたわけだが、今夜は少し趣向を変えて自分にとって大切な映画監督について語りたい。
すでに第二回目のレビューで前原君が取りあげているので、読者もご存知と思われるが、「悪趣味」と評される映画を撮り続ける男、ミヒャエル・ハネケについて、自分なりの思い入れを少しばかり真剣に語る。
ミヒャエル・ハネケはドイツ生まれ、オーストリア育ちの映画監督である。
豊かな白髪とメガネは、一見して〈痩せた宮崎駿〉といった感じだが、撮る内容は宮崎駿とは似ても似つかない。わたしは『ファニーゲーム』(1997)という映画で、初めて彼の事を知った。
あれはいつの事か、大阪は天王寺のフェスティバルゲートで、前原氏と初めて顔合わせをしたときだから、もう四、五年前のことになるだろうか。朝宮君を介して知り合った我々は、まだお互いの話題も手探りの状態だったが、ふとお勧めの映画について話しあう機会があった。そのとき全くの偶然だったのだが、二人とも同じ言葉を口にしたのだ。
ハネケの『ファニーゲーム』が一番面白い、と。
■ 破壊の象徴は自分に対する暴力 (ハネケ)
まず暴力とは何か?その簡単な定義から始めてみたい。
大辞泉によると、「暴力」とは、
1 乱暴な力・行為。不当に使う腕力。
2 合法性や正当性を欠いた物理的な強制力
と説明されている。
しかし、わたしはこれに不満だった。暴力とは必ずしも、物理的に限定されるものではないだろうからだ。
わたし自身の言葉で再定義してみれば、すなわち暴力とは
「相手の領域に侵入し、強制的に相手の尊厳を奪うこと」
ということを示す。
もしかすると領域という言葉に、違和感を覚えるかもしれない。
領域には「物事・人がかかわりをもつ範囲」という意味が与えられているが、ここでは要するに、人間なら誰もが持っている自分なりの形だと思ってほしい。それは料理の味付けでもいいし、足の踏み出し方、あるいは無意識に持っているモラリティでもよい。領域とは、何に憧れ、何を良しとして何を拒否するのか、人格の形成の過程で培われた、あなたという世界の地盤となるものである。
「これだけは譲れない、これをするのは嫌だ」とあなたが思うことは数多くあるだろう。それを外からの強制力で揺るがしてしまうもの、それこそが暴力である。先の物理的な攻撃は、その強制力のひとつの形に過ぎない。
ハネケが映画で示すのは、これら暴力のさまざまな発生である。
より効果的に、よりリアルに、というハネケの製作態度は最初の監督作品『セブンスコンチネント』(1989)から決して揺らぐ事はなかった。そこに描かれる出来事は観ている者に冷たさと居心地の悪さを感じさせるだろう。例えるならそれは、癒されることのない傷口であり、予定調和の存在し得ない世界である。
壁一枚を隔てたところで起こり得る悲惨な出来事――ハネケがスクリーンに描く出来事は我々が生きているこの世界となんら変わりはない。観ている側の世界にも、映画と同様の事が起こる可能性は常にある。
-1-
|