『タイムオブザウルフ』(2003)は比較的最近の映画だが、この映画のテーマは有罪性ではなく「救済」である。ハネケの中では珍しいものだが、それだけにこの特異な作品が語るものは多い。
危機的な災害によりヨーロッパが壊滅状態になる。主人公家族は田舎の別荘に避難しようとするが、別荘はすでに他からやってきた避難民の家族に乗っ取られていた。
父親は話し合って解決しようとするが、避難家族はその対話を暴力によって断ち切る。一発の銃によってすべては崩れる。
そこに描かれるのは、モラルが崩壊し、人間がお互いに協力しあう事の難しい世界である。ミルクをもらうために女が身体を売り、盗みが起こるたびに人々は猜疑心に駆られていがみ合う。設定は架空の未来というSF仕立てだが、展開される世界はハネケがそれまで撮り続けていた映画と何も変わらない。
この災害に関して、映画は何一つ詳しい説明はしない。ただ、個人ではどうすることもできないような困難な状況が広がるのみである。
救いのない世界は誰のせいなのか?
この災厄はいつか終わるのか?
ある者は「国から列車が来てそれに乗れば助かる」と言う。
ある者は「そんな列車は、もう存在しない」と言う。
家を追われた主人公たちは、来るあてもない列車を待つ以外何も方法はない。やがて同じような噂を聞いた人々が集まり、駅は一種の避難キャンプのようになる。時間が経つにつれ、わずかばかりだが共同体めいた動きも出てくる。そんな折、助けを待つ人々の間でこのような話が広がる。
この世界の秩序は36人の聖人によって保たれている。彼等は火に飛び込んでも死ぬことはない。
それを聞いた主人公の少年ベニーは、ある夜、自ら火に飛び込もうとする。
たまたま夜間巡廻中だった監視役の男が、それに気づいて危機一髪でベニーを助ける。震える少年を抱きしめながら、監視役の男は長い台詞を語る。 映画のハイライトといえるこのシーンだが、わたしにはこの台詞がハネケによる暴力の向こう側を暗示しているように思えるのである。
「だが、お前は勇敢だから考えたんだな。なあ、お前の両親はどこにいる?一人ぼっちにさせて……お前なら飛び込んでた。
でも、やろうと思っただけで、十分なんだよ。待ってろ、全て解決する。たぶん明日にでも。明日になれば大きな事がやってくる。スポーツカーだ。お前も好きだろ?乗ってきた男がこう言う。「世界が生まれ変わる」水もお肉もたくさん来る。死んだ人だって生き返るかもしれん。そうだろ?お前の気持ちだけで十分だ。この事をみんなに話す
よ」
行き詰まりにも見える我々の乾いた世界に、たった一人の犠牲は何の力も持たないかもしれない。気持ちだけで世界が変わるはずもない。
だが自己犠牲というこの行動は、ハネケの映画の中で初めて示されたテーマであった。その犠牲は誰に向けられているのか。
断じて個人ではない。
それはこの世界を作り上げたもの。不均一を生み出し、我々に生きる枷を与えたもの、神とでも運命とでも言うべきものではないだろうか。
面白いのは、この映画と似た視点で、晩年のタルコフスキーが映画を撮っていたということだ。
「この分かたれた世界で、人と人とがいかにして理解しあえるのか」とはタルコフスキーが『ノスタルジア』(1983)のインタビューで明らかにしたテーマだが、神を強く意識し続けたこのロシアの映画監督もその答えを「自己犠牲」に求めていた。
もちろんハネケがタルコフスキーを観ている可能性は否定できない。だが、その二人の映画監督の見る先にあるものは、おそらく同じであろう。ある一面でハネケの映画とは、タルコフスキーとはまた違った方法で表現された、運命への問いかけなのかもしれない。そしてこれから撮られるであろうハネケの映画に、わたし達はいつか答えを見出せるかもしれない。人は最初に与えられた運命を選ぶことはできないが、その意味を問いかけ、考え続けることは可能なのだから。
次のバトンは、おなじみ映画監督として活躍中の湯魔君にタッチ。いよいよレビューも最終コース。いいかげん、このバトンも汚れてきたが、しっかり走ってゴールに辿り着いてくれ!
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