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●リレー連載映画レヴュウ/第八回 『『恐怖奇形人間』 広介、貴様も奇形人間になぁるんだぁよ!
ジャケット

土方巽

 そしてもう一人忘れてはいけないのが、源三郎の父親、丈五郎を演じる土方巽である。
 指に巨大な〈水かき〉がある事が引け目の菰田丈五郎は、他の人間たちも同じような奇形人間にしてしまえば、自分も特別でなくなると考えた。彼は手下を使って若い女達をさらわせ、次々に悪夢のような人間を作り出し、パノラマ島の王となって君臨しているのである。
 いわゆるマッドサイエンティストの役割なのだが、その存在感や、出てきた途端に他の登場人物を全て食ってしまうほどである。キリストよろしく、真っ白な着物に長い髪といった奇妙ないでたちの土方巽が、裾をからげながら海辺を走るシーンは一度見たら忘れられない。
 それも秋田弁混じりのイントネーションで
「広介……貴様もぉ奇形人間になぁるんだぁよ!」と言うのだから。

土方巽


 ここではぼくは考えてしまう。
 いったいこれはコメディ映画なのだろうか?
 確かに笑えることには間違いないのだが、それではこの魅力はどう説明すればいい?『恐怖奇形人間』は決して、ストーリーに隙がないからでも、(いや、むしろ隙だらけだ)、音楽や演出が素晴らしいわけでも、作品に高尚なメッセージが込められているわけでもない。しかし、気がつけばこの映画に惹きつけられている自分がいるのである。
 あまたのB級映画が、その完成度の低さを笑われながらも、長年愛されるには理由がある。それは「整合することのないズレ」の魅力であり、我々を魅了する点もまさしくそのズレの微妙なバランスにあるのとぼくは言いたい。
 SFならSFの、怪奇なら怪奇の、それぞれには暗黙のルールというものがある。それが制作者の意図しない隙によって、ムードが壊れてしまうとき笑いが生じるのだ。
 最近はあまり耳にしないが、B級とされる映画を楽しむことを語るときには「キッチュ」という言葉がオマケについてきたものだ。キッチュとはなにか。作家のクンデラは「俗悪なもの」としてこの言葉を再定義し、全体主義的な体制のロシアを批難したが、今回はクンデラ先生にはお休みいただいて、もっとフランクに行こう。
松尾貴史 Wikipediaから引用するのは、やや心もとないところもあるが、この遠ざかりつつあるキッチュという言葉は(松尾貴史がキッチュと名乗っていたのももう遠い昔になりつつある)一般的に――

● あまりにも陳腐であるが故に、周囲の注目を集め、独特の存在感を呈するもの
● 「見る者」が見たこともない異様なものか、「意外な組み合わせ」「ありえない組み合わせ」として使用されている。

 実にありきたりな結論に達したことに汗顔の至りだが、ぼく達は『巨人の星』で闘志に燃えた星飛雄馬の目玉がメラメラと燃えることに笑い、モンスターの背中にチャックがある事に笑い、従来のイメージを覆すジョークにより、笑わせられてしまうのである。
「おい、ヒトラーってのは、セックスのとき自分では絶対に動かないで、ニヤリと笑って射精するらしいぜ!」
 この世界観におけるルール違反はB級映画では数多く見られるものだ。しかしこの違反はサッカーとは違い、審判からイエロカードが出されることはない。そこに笑いが生まれる限り、拍手をもって迎えられることすらあるのである。
 乱歩の世界自体が、冷静に考えれば結構チープなものなのだ。それをまた本気で映像化した石井輝男だからこそ、このような快作が生まれたわけである。そうして馬鹿にしながらも、気がつけば我々はキッチュの罠に捕らわれるのである。
 もう一つ、いささか迷信めくが、わざと意識して作り上げたキッチュは面白みがないとぼくは信じている。それはあくまでも、真剣にバットを振ったあげくの盛大な空振りでないといけないのである。
 
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