結城一誠過去作品展示
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●リレー連載映画レヴュウ/第五回 結城一誠が見た
“第18回オリンピアード競技大会東京大会公式記録映画『東京オリンピック』”
ジャケット

いよいよスタートの時。スターターの号令で一斉に塊となって走り出すランナー達。集団は一人抜け二人抜け、やがてアベベら先頭集団が後続を突き放す。“走る哲学者”の異名を取るアベベ・ビキラは先頭集団に留まったまま折返点に達する。アベベのトップ独走が始まる。キャメラはアベベの哲人的な表情を前方側方から捉えていく。アベベの為に設けられた演出でも仕込んであるかのように、彼の独走が浮遊感があるでもない引き締まった音楽を背景に眈眈と描写される。このアベベの「孤独な闘い」の描写は、一見創作じみた風を醸し出してもいようが、同時に監督やキャメラマンにとっては、オリンピック記録の総轄として得た“哲学する肉体”のカットが得られたのは至極僥倖だったのかもしれない。私的には、このアベベ独走シーンがどのカットよりも長く重苦しく感じられた。マラソンのチャプターは正にこの記録映画のハイライトであるのだろう。
冷静にゴールインするアベベ。ヒートリー、円谷が遅れてゴールを迎え、キャメラはその後、完走した選手と落伍する選手の表情を対比的に重ねながら捉え、マラソン競技の残酷さと栄誉のコントラストを映し出す。やがて何とも言えない感銘が実を結ぶ。

サヨナラ、トウキョウ
閉会式。高らかなオリンピック・マーチに合わせ、開会式とは対極的に自由闊達に各国の選手が入場してくる。同僚を肩車する者、旗を翻す者、自衛隊ブラスバンドを指揮する真似して気取る者。競技を終え、祭典の終幕を迎え、綻ぶ各々の表情。奏でられる「蛍の光」と電光掲示板に映される「SAYONARA」の文字。現在のオリンピックでもお馴染みの演出である。当時の次回開催地であったメキシコシティでの再会が祈られる中、聖火台の火が消される。
火が消えていく映像に「人類は四年に一度夢を見る この創られた平和を夢で終わらせて良いのだろうか」というスーパーインポーズが打たれ、映画は締め括られる。この文句は愚衆への皮肉にも聞こえるし、人類の果てなき祈りの修辞にも聞こえる。しかし、現在の商業化されたオリンピックでこうした文句の多用を見ると、最早胡散臭さを通過して形骸化した髑髏の容貌をも臭わせるフレーズに成り果ててしまっているのは言うまでもない。一方、映画は印象的なシーンのスチールをバックにエンドロールが流れ、「完」として締め括られる。
『東京オリンピック』は記録映画である。

あくまでも事実の記録として生まれた映画である。しかし、その媒体が映画である以上、その画面上で織り成される情況には、現代の映画では褪色しつつある「映画礼讚時代」のエスプリがある。最近の邦画には、よりテクニカルでお手軽なチープさばかりが求められている傾向があることを殊勝に感じるが、それによって邦画の内容がより短絡的になり、物語の面白さ・奥床しさと美意識、そして映画という枠組の本質を失いつつあるのは、映画制作者やオーソリティの変容にもあるだろうが、実際には観客の映画に対する態度、節度が歪みつつある側面にもある。私見を述べれば、日本人は「泣ける」「感動する」的な見方を強要されながら、映画を観ている即席の国民性から脱却すべきである。映画を観るとは、単一感情のカタルシスを得るための方法ではなく、その映画を舐め尽くし、咀嚼した上での嚥下作用であるかも知れないのだ。その分、映像や脚本に編み込まれた緻密な成分を味わっていかねばならない労苦もあるだろうが、感情の作用はその労苦の果てに見え隠れする経験則や先入観に遮られた一瞬の曙光なのかも知れない。『東京オリンピック』の人間的な描写の裏にある、あまりにも緻密な撮影計画と筋建てに些少でありつつも強烈な感銘を受けたことを認めて、此処に一先ず筆を擱くことにしよう。


というわけで、東京オリンピックは遥かなるが、それでもリレーレビューは続くのだ。独自映画探求の道を躓きながらも一進一退繰り返しながら。夫夫の擦りむいた膝小僧の傷痕見て、貴方は何を思うだろうか。
さてリレーは私の担当回で一巡して、次は怪奇幻想伯爵、朝宮運河卿にバトンを託し、再度登場して戴くことにしましょう。二巡目はどうなる??さても皆様方、乞うご期待。

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