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SF的ギミックとして、パウロがマトリクスのような物語内世界の外部世界に属しているのであれば、虚構は現実と同じくらい現実だ、と曖昧に語るのではなく、彼らが現在いる世界が虚構か現実か断定しえるはずなのだ。
ここで語られる「虚構は現実と同じくらい現実だ」が示すのは虚構と現実に隠された第三項を自覚した者でなくては発しえないのだ。
マトリクス的物語内外部世界を算出するメタ運動は物語世界の外部世界の外部世界の外部・・・、と無限に階段を上り続けることはできるだろうが、虚構と現実の二項対立図に隠された第三項を抽出するには至らない。
パウロが確信している第三項とは何度も彼自身が台詞として発している「映画」である。
ギミックとして過剰にメタ化した、としても決して「物語の外部」「映画の外部」へとは至らないのだ。
過剰な演出として片付けてはファニーゲームが何故、映画の外部を求めなくてはならなかったのかに十分に応えきれないのだ。
このことが語られない限り本稿は閉じられない。
そう、パウロは常に違和感を伴っていた。
トムとパウロという二人の暴力という記号の化け物はその実決して等価に描かれていなかった。
トムとパウロは確かに登場人物へ理不尽をもって暴力として体現されている。
トム単体においてみてもやはり、彼が加える暴力は登場人物に向けられている。
しかし、パウロにおいてはトムと同じく物語内部に留まりつつも、映画の外部へ眼差しを向けて遣すのだ。
なぜ、パウロだけが映画の外部へとはみ出してくるのか。
登場人物達は映画という作品に貢献し、俺も観客という形で映画に奉仕している。
が、パウロ、奴だけが違うのだ。メタという構造にこだわらず単に過剰に過激に物語内世界からはみ出すだけならば彼は思うがまま物語が完全に破綻するまで自由に振舞えるはずだ。
ギミックの過剰な拡大演出、とみるならばそうあるべきなのだ。
が、彼はあくまで物語内世界の維持に忠実であろうとし、同時に物語内世界の外部、映画の外部へと視線を投げて遣している。
なぜ、パウロだけがそうあらねばならなかったのか。
例えば、暗くなった際に「眠るなよ」と何故言わなければならなかったのか。
トムは眠そうな演技をしてはいないのにも関わらず、だ。
例えば、なぜパウロは映画が始まり46分にアナの服を強制的に脱がせなくてはならなかったのか。
一瞥して終わるほど大して興味もないのに、だ。
例えば、なぜパウロがアナに「見せ場」を用意してやらなければならなかったのか。
祈りの台詞をやり直させ、確かに殉教的な雰囲気さえ漂わせるまでパウロが求める必要が何故あった?
例えば、なぜパウロは観客に挑発的な視線と問いかけをなげかけねばならなかったのか。
なぜ、パウロは映画の外部をこれほどまでに気にかけねばならなかったのか。
それらは、パウロが観客を気にかけなければならなかったからだ。
だから、パウロは映画の外部へはみ出したのだ。
パウロが観客を気に掛けた結果、SF的過剰なギミック演出に見えたに過ぎない。
そのような人物は誰だろうか。
「虚構は現実と同じくらい現実だ」という台詞を身体性の確信をもちつつ言い放てる人物とは?
「虚構」をパウロが言うように「映画」に置き換え、「映画は現実と同じくらいに現実だ」と切実に語りうるのは誰だ?
思うに「監督」こそがその人物だろう。
パウロとミヒャエル。
ミヒャエルが使わした現実には存在しない、「映画監督」がパウロの正体なのではないだろうか。
そうして観た時、このグロテスクな倫理を扱った問いかけの在りようが語りえるものとなるのではないだろうか。
「映画」という観念、作品テーマとして掲げられている「映画(メディア、エンターテイメント)と暴力」という問いがな ぜこれほどまでにグロテスクな形で立ち現れたのか。
以上で一応記述できたかと思う。
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2007年にハケネ自身によってハリウッド版リメイクが完成されている。
「9.11」以降の「ファニーゲーム」。
どうなってると思う?
蛇足にホント単なる感想。
ファニーゲームを観て喚起されるのは「時計仕掛けのオレンジ」と「悪魔のいけにえ」の二本。
部屋の二階から逃げるシーンとか車に助けを求めるシーンなんてさ、見た目も似てるじゃない。
時計仕掛けはおそらくトムとパウロの妙な衣装とゴルフクラブを杖代わりにしている感じに下睫の長さかしらね。
ただ内容的にも足して二で割ったらファニー?それも短絡的過ぎか。
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さて次回はEJ TAKA(from自分BOX)!!この人も変なもん見てるからなあ。でいてやはり文章が旨い。面白い。一体何書く気だべな。期待して待つぜええええ。
ではまた来週をお楽しみに。バトン握りすぎてベタベタしてっけど落とすなよ。おういええええええ。
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