●視点@…人物描写
例えば映画序盤のP1に見る荒川茂樹の車内での表情である。ここで、運転席にいる荒川は後部座席の後藤や南雲に、柘植行人についての調査協力を依頼しているのだが、この荒川という人物、強度の斜視なのである。不均衡な顔面というのはインパクトが強い分、対面する者は畏怖さえ感じる。スクリーン一杯に不敵な笑みを浮かべた彼の顔に、車外を流れては洩れる街路灯の光と影が交互に映るシーン。ここで後部座席の後藤らが荒川の背後からしか感じ取れぬ不安と、観客が真っ向から感じ取る不安は異質なものかも知れない。しかし、現実における不安材料というものは実に不都合なものである。後部座席から荒川の顔が確認できるのはバックミラーでの目許部分ぐらいで、それ以外の表情は隠されているのと同じである。つまり、このシーンに先んじた荒川が車での談話を選ぶという下りは、マジシャンで言えばミスディレクション(引っかけ)を及ぼすためのチョイスの場面であったとも言えるのだ。いわば、君達には自らの背後と限定された表情しか見せぬという荒川による周到な戦略がここでは垣間見ることができる。その前に荒川が突如伏線なき強引な登場を果たすことで尚更その不確かな不安は増大する。同時に、後藤らには疑惑と推理の余地を与えていることにもなるだろう。不安ゆえの疑惑、疑惑ゆえの推理。表情の隠蔽と極秘情報の呈示による撹乱。無限連鎖の心理作戦が両者の「接近」という危うい位置で行われる。まさにそれを表象しているこの場面での各人の表情。実写と異なるアニメーションの可能性は、この表情を誇張させる機能を持っていることでもある。これについては実際の映像を見てほしいのだが、荒川のニヤつき加減や後藤の怪訝そうな顔は普段我々が実社会でしたたかに演じる相貌に比べ、その濃度が尋常ではないと感じるのだ。まさにこれがアニメーションには欠かせない絵の力であり、同時に観客の興味を惹く風情を漂わせている制作者のエスプリが出ている証左である。
査問会議におけるP2、後藤の警察上層部の愚鈍さに呆れた表情もそうである。一見「やりすぎ」な表情である。しかし、これは実際我々がやってみてできるものではない。そこに旨味がある。ここで後藤に無茶な顔付きをさせることで、上層部の愚かさと現行事態の非常性との間での到達した後藤の心情を実に明解に表している。そして実質的な襲撃の発生を知らされ狼狽する上層部に一喝する後藤の鬼のごとき面相(P3)への劇的な変化。まるで、無理に沈めたビート板が腕を摺り抜けて水面から空中に飛び出すように。或る物体が圧力に耐えてそこから一気に開放される力学的作用を表情を介して示した、見る者の感情移入を迎え入れるシーンだ。
まあ美談風に言えば、この映画では登場人物を単に格好よく描写する、綺麗に見せるだけではなく、ある一点から鋭い放物線で人物を浮き上がらせる力を、制作サイドは絵における表情描写を工夫することで発生させる装置を施し、台詞というオイルと状況という潤滑油で、メッセージを観客の胸の内に飛び込むように差し向けたということになる。
-2-
|