本来の姿のあり方と、自己とのギャップ。一度大きく売れてしまった人間が襲われるあの感情に彼もまた悩まされるようになっていた。
そんな折、あの未曾有の「蟲丸のキリスト発言」がやってくるのである。
これは以前にも書かせていただいたが(RHアルバム『ウッホイレゲエだよ!』参照)、蟲丸が「自分はキリストよりも有名」と名乗った事件である。事件そのものは大したこと無かったのだが、オーディエンスの反応が彼に与えた影響は大きかったようだった。
それは確か10月の寒い朝だったと記憶している。
わたしがいつものようにオフィスに顔を出したとき、そこに蟲丸の姿は無かった。
ただ一枚の書置きすらなく、半分に割れた琵琶と、ご子息の使用済みの紙オムツがデスクの上に残っているだけだった。
わたしと蟲丸の二度目の別れがやってきた。あの戦後のときと同じように、彼は唐突にわたしの前から再びその姿を消したのだった――
時代は1970年代に突入しようとしていた。高度経済成長期の真っ只中、上向きの世間に日本は浮かれ、アポロ11号が月面着陸に成功し、ひいきの横綱「柏戸」関が引退した年でもある。
反対に、わたしはといえば、彼のいないRHを運営するので大変だった。
ケン坊とトミー、マリア四郎とスターズ、自分ボックスとアニマルズ、TOMCAT、と様々なアーティストがRHから現れたが、どれも今ひとつで、華が無い者たちばかりだった。カリスマをなくしたRHフレンドルは以前の勢いを失いつつあった。
「近所に面白いオジサンがいる」
とわたしの愚息が騒ぎ出したのは、蟲丸と別れて8年近く経った1975年の夏の終わりだったと記憶している。
何でも地元の少年少女を集めて、お寺で「面白いお話」を紙芝居で聞かせてくれるらしい。どんな話だと聞くと、
「赤ちゃんの作り方」や「白いおしっこの出し方」だと言う。
ならばわたしも聞かないわけにもいくまい。一応用心に、と物干し竿を持って、わたしは息子と一緒に、オジサンがいるその寺に向かった。
近所の誰もが忘れかけているような廃寺がどうやらその会場だった。
既に座に集まっていた子どもたちは、今か今かと待ち焦がれている。あの破れたふすまの向こうからオジサンはやってくるのだ、と息子が教えてくれた。
と、不意に木魚の音が響いた。子どもたちの歓声をよそに、襦袢に腹巻と言う姿で、長髪・ヒゲ面の男が現れた。忘れもしない「あの男」だった。だが、わたしが彼を認めたのと、噂を聞きつけ待機していた警察官が踏み込んできたのはほぼ同時だった――
しかし、わたしは少し喋りすぎたのかもしれない。
警察官に羽交い絞めにされる「あの男」を、わたしは真正面から眺められなかった。
なぜなら、わたしの目は止めどもない涙で曇っていたのだから。
「刑法第一七五条 猥褻物領布陳列罪」――これが彼に課せられた罪であった。
監獄で面会した彼はやつれていた。月のものすら止まるようなひどい環境だ、と彼は吐き捨てるように言った。わたしは楽器屋で買ってきたグレコのギターを彼に渡した。取り立てて良くも悪くもない白のギターであるが、彼の再出発を願う意思を伝えるには、わたしにはこの方法しか思いつかなかったのだ。
蟲丸がエレキギターを手にとってから2年、彼は1977年にマーク・チャップマン気取りの男に射殺されることになる。それこそジョン・レノンのように――だが、この話はまた別の機会に譲ることにしよう。
今、あなたの手元にあるアルバムは、それからの日々、彼がエレクトリックギターを手にして、監獄から出てきたときの音楽を集めたものです。
戦後ヤミ市から現れた、この音楽の神様の復活は短いものでした。二年間の奇跡、と後の評論家達は言いますが、この僅かの期間の間に彼が録音した音楽は、どれもかけがえのない輝きと衝撃を、今も聴く人間に与え続けています。
蟲丸の音楽は彼の没後、日本だけでなく瞬く間に世界にも広がり、現在でも若者の間で聖書的な扱いを受けています。「キリストよりも有名」という蟲丸の言葉は、皮肉にも後の世で実現することになりました。
そしてわたしのレビュウも、いよいよこれをもって終わりを迎えることになる。
語るべきことは語りきった。伝えたいことは伝えきった。あとはあなたが蟲丸を聴くだけなのだから。
余談だが、キリスト発言後の失踪のとき、蟲丸はどこにいたのだろうか?
昨年のことだが、失踪中の彼の世話係をしていたというマサユキさん(仮名54歳)という男性に会うことができた。現在は広島のバー「ノンケっ子」のオーナーである。
「やさしい人だったよぉー、あたしがね、こういう事は初めてだと告白すると、優しく教えてくれてねぇ、痛くしないようにって、やさしくぅリードして撫でてくれるんだよ。夜通しそんな調子だから、わたしはもう溶けちゃいそうだったわ」
「あの空白の8年間――彼は何をしていたんですか?」
「愛していたわ」とマサキユさんは言った。「世界中のねぇ、子供達と一つになりたいって、あの人本気でそう信じていたのよ。フフッ、バカみたいでしょ。でも、そういうところが好きだったのよ。子どもみたいで、純粋でさ――」
「たしかに蟲丸は純粋な人間でしたから」
「でもねぇ、社長さん。あなたが本当のこと知りたかったら、有楽町の「日比谷映画」に行ってみればよかったのよ。あそこはねぇ、わたし達二人の思い出の場所なの。あの映画館の一番後ろ……座席の下を撫でてみればいいわ。裏の方に彼が彫ったメッセージがあるはずだわ。そこに彼の一番愛した人の名前があるって……あの人笑いながらそう言ってた」
「あの映画館はもう閉館になったのでは?」
「そうね。だからもう、確かめることはできないわね。でも、誰の名前か興味あるでしょ?
あら、あたし?やーね、あたしはきっと違うわよ。正直、確かめたい気持ちもあったけれども……それは恐いから。そうじゃなくても、あの人を守ってあげられるのは、あの当時はあたしだけだった。もうあたしはそれだけで十分満足。彼から抱えきれないほどの愛をもらったもの。そうね、あの人が誰を愛したのか。それはきっと神様とあの人だけの、秘密――」
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