以前、フライヤアの管理人である前原氏に
「今、若者の間で大流行の蟲丸との関係を語って欲しい」と説得され、不詳ながら筆を取り、思い出いくつかを書かせていただいた事がある。
早いものであれから十一年がたち、孫に囲まれつつも、わたしも今年で白寿を迎える事になった。まことに、長生きとギョウ虫検査だけはしておくものである。
確か前編では、獄中での再会、そして三度にわたる蟲丸のニセ解脱疑惑、華厳の滝での公開自慰パフォオマンスなど、いわば蟲丸にとっての青春と激動の日々のなか、わたしと蟲丸とのたった一夜だけの出来事を書かせてもらったことと記憶している。
できたばかりのオフィスRHと歩みを共にしながら、板前、宮司、ヌウドモデル、時には訪問販売員というキャリアを経て、蟲丸は順調に己の曲を増やしてゆくことになる。
「穴盗人吾郎」「NO・5の力士」「Mr,Back Hole Man」などフアンの方々にはおなじみの曲もすべてこの時期の作品である。
RHに顔を出して一曲、わたしと話してまた一曲、家に帰ってもう一曲、というように、この時期の蟲丸はとどまる事を知らなかった。汲めども尽きない泉のように歌は完成してゆくが、しかもその全てが名曲なのだ。これ以上何を望む事があろう。
ブレイク――とわたしが書くとおかしなものだが、例えて言うならそれであった。
1960年代初頭、時代は確実に蟲丸と歩みを同じくしていた。いや、蟲丸が時代をリードしていたと言っても過言ではなかろう。
「琵琶一本で何でも歌う。おまけに背中の霊まで見えた!」
記憶しておられる方も多いだろうが、これが1960年代の彼のキャッチコピーである。
その流れに乗った1967年、蟲丸はかつて誰もが想像し得なかった偉業を達成する。聖なる巡業(当時わたし達はそう呼んでいた)――蟲丸の大々的な日本縦断ツアーである。
この年、全国は北海道から鹿児島まで、彼は驚くべきことに年間二百本以上のツアーをこなしたのだった。自分の音楽を伝えたいという蟲丸の想いはゆるぎないものだった。
プロデューサーから、プロデューサーへと、まるで花を飛び交う蝶のように、男も女も関係なく蟲丸は次々に営業をこなしていった。だが二百本もの枕営業など常人にこなせるはずもない。ツアー終盤では彼の下半身はほとんど麻痺していたというが、そんな彼に対し、わたしはオロナイン軟膏をそっと差し入れることしかできなかった。v
しかし結果的にプロデュ―サーの立場から言わせてもらうと、この営業は「当たった」。
当初、オフィスRHは、僅か八坪のバラックでしかなかったのが、その頃には五階建ての堂々たる構えになっていた。わたしはといえば、ビルの最上階でせっせと蟲丸関連の本を出版する日々だった。
『あなたも霊になれる〜三上蟲丸監修』(売り上げ45万部)
『イナゴ身重く横たわる〜三上蟲丸監修』(売り上げ3万部)
『ドキッ!算数で女の子の服を透かしちゃえ!〜三上蟲丸監修』(売り上げ80万部)
『真・聖書〜三上蟲丸監修』(売り上げ250万部)
『蟲丸の、聴けば身につく声優力!〜三上蟲丸監修』(売り上げ24万部)
『赤ちゃんに告ぐ!おしっこの出し方入門〜三上蟲丸・監修』(売り上げ170万部)
これらの本は現在でも発売中である。本屋で見かけたら、ぜひ一冊手にとってみて欲しい。わたしの懐がうるむ。
それはともかく、この調子で幸せな日々が続けばよかったのかもしれない。
しかし禍福はあざなえる縄の如く、というが、印税で笑いが止まらないわたしをよそに、当時の蟲丸の内面はかなり切羽詰っていた。アルバムの製作に異例の時間をかけるようになったのは良いとしても、なぜか「愛」について語ることが増えた。
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