自分が自分をどうとらえているか、と社会的に見て自分はどう在るかがあまりに近く、自分を理解してもらえる範囲のみを「社会」として錯覚し機能させてしまう。
当然コミットできる社会は限られる。
本来ここで言う”社会”とはこれまででは仲間や友人という集団を指していた筈だ。
そもそもが間違っている。
自分の身に起きた出来事を外側の事象から拝借し了解した気になり、自分の身にしか起きていない筈の出来事を他者と共有してしまい、本来の自己像を曖昧に保留したままなのだ。
彼が勘違いしている自己像を周囲は正しく理解しているが、彼本人が自身を誤解していることにまで周囲は気がつく筈もない。
自分が自分を分かっていないし分かるため現実に直面もしていないのに、周囲は自分を理解してくれない、と自家中毒が始まる。
彼自身自己を規定できずにいるのだから、彼は何にでもなれてしまう。
社会により形成されるべき自己像が本来ならば彼にある程度の限界を見せ、彼がなんたるか示すものだがそれもここでは機能しない。
何者でもない彼は、何者にもなれてしまう可能性だけを手に入れてしまう。
その状況は自由とも呼べるが、規定しえないという状況は不安を呼び込む。