この空回りが、作品に特殊な空気を与えている。弐瓶氏の世界のなかに、木々や花、山など自然の風景が見当たらないのはそのためだ。そこは秩序なく乱立する建物が見えるだけなのである。人々は組織には属するが、近所付き合いやコミュニティが作品内で強調されることはない。つまるところ、異常進化しすぎた都会の姿なのだ。
その徹底的に無機的な世界観、それをもう一面で支えるのが弐瓶氏における「時間」の扱い方である。
『BLAME!』にせよ『アバラ』にせよ、時間はすでに力を失っている。命にリミットを設けるという絶対的な制約を人間は超えてしまった。
弐瓶氏の作品では、意識だけダウンロードされた無機物が登場する。『アバラ』では、ライターのような小さなユニットや、鳥の骨が〈人間〉として登場する。彼等は意識も判断力もあり、もとは人間であったと伺えるが、人間が生き延びるためには、もはや自己の身体を必要としないことをこの事は示している。この仕組みは同時に、永遠とも思える時間を人間が手に入れてしまったことをもあらわすだろう。
長期的な生命という概念はSFでもよく見られる手法だが、弐瓶氏の場合、この時間が普通の作家より並外れているのだ。個人的な存在が長期的な時間を過ごし、特別化するのではなく、それらはもはやありふれたものとして扱われている。