「流れ」のある監督というのは僕の見た映画では珍しく思う。
似た印象の監督を並べ対比してみると、デヴィット・リンチ監督と庵野監督のフェチズム。
デヴィット・クローネンバーグ監督と押井守監督のマニアックさ。
ラース・フォン・トリアー監督と塚本晋也監督の流れ。
初期トリアー監督の「エピデミック」、「エレメント・オブ・クライム」、「ヨーロッパ」。
これは後に「ヨーロッパ三部作」と呼ばれ、また「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、「イディオッツ」が「黄金の三部作」、現在公開中の「マンダレイ」を二本目とした「ドッグヴィル」から始まる「アメリカ三部作」。
想うに初期「ヨーロッパ三部作」では偶然による観念による一連の流れであり、現在の「アメリカ三部作」のように強く意識されたものではなかったのではないだろうか。
自己の作品の一連の流れをある時点で把握し、意図的に再構成し、そこから自作を練る。 「ヨーロッパ三部作」から取り出せるキーワードは「歴史」と「映画的物語作法への懐疑」かと思う。
映画的物語作法への懐疑は、物語の語り方と物語自体を密接に結びつけることで、「主体の剥奪」と言う結末で物語自身と観客を巻き込んでいく。
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