けれども、表題にならいギブスンと云うホログラムの千余に砕かれた一片として見た時、否応なしに気付かされる彼の諸作の全体像が垣間見えた気がした。
 本短編にある特徴と、他ギブスン作品に共通するモチーフを抜き出し、それらを並列し、それをもってアーカイヴされたギブスンとして展開したこととするならば、 それはここで試みる「ホログラムが投射する全体像」に反するだろう。
 では改めて、このホログラムのかけらが投射する全体像とはどのような映像だろうか。
 ある対象を認識する、「像」を「像」としてとして我々が捉えうるためには同時に「背景」も現れていなくてはならない。
 このゲシュタルトはいかに形成されうるか。
 いやいや「ゲシュタルトとはそんな簡単な概念じゃあない」とか横槍が入りそうだが、「認識の条件」と幅のある考え方をして貰えればそれでいい。
 俺は幅のある考え方が好きだ。
 それと何か物事を考えようとする時、対象と「対象を対象としうる背景」を想定して考える。
 当然背景は対象と同化するようじゃ背景とならない。白いカンバスに同色の色を置いても「見えない」。だろ?
 白い絵の具がまず、「見える」ためには相応のカンバスが不可欠だ。
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