さて。この正月も飛行機に乗る機会があり、忌々しいのでひたすら眠っていた。別段眠たくもないのだが、無理をしてでも寝るのである。こういうときツクヅク下戸の身が恨めしい。やがて、おトイレに行きたくなって目が覚めた。幸いトイレは座席のすぐそばであった。
立ちあがり、扉に手をかけたところで、冷たい顔のアテンダント嬢に呼び止められた。すでに着陸態勢に入っているから、ベルトを締めて座っていてくれという。ムウンと呻りつつ着席したけれども、機体ははるか上空でいまだ水平飛行をつづけており、羽田空港なんて影も形も見えやしない。ついさっき離陸したばかりのようにさえ見える。一方、わが膀胱はすでに爆発寸前GIGであった。落城寸前、ひとり修羅場のゲルニカである。羽田に着陸するまで、気の遠くなるような時間と冷汗が流れた。
やっとこ機体が接地し、ターミナルがグングン近づいてきた。いや、まだだ。このスピードではまだ立つわけにいかない。再び制止されてはさすがに恰好が悪いので、私は極力なんでもない風を装いつつ、窓外の景色を眺めていた。当然心では号泣しているのだ。いっそ洩らしてもいいとさえ思いはじめている。
ついにスピードがノロノロ運転の自動車並にまで落ちた。機体ももう揺れてはいない。よし、これなら大丈夫だ、万事オーケー、完了だ、そう決断して立ちあがり、トイレの扉に手をかけた。その瞬間だった。「お客さま――」と、また冷たい声が飛んだのである。「ベルト着用サインが出ておりますので、ご着席ください」
いや、それは解る。解るんだけれども、緊急事態って誰でもあるじゃない。あなたおトイレ行ったことないの? 君サイボーグ? しかも一度目とまったく同じタイミング、同じ台詞で、扉に手をかけた瞬間声をかけるのだからタチが悪い。俺の膀胱を苛めているのだとしか思われない。この魔女狩り野郎!と内心毒づきながらフラフラ席にもどった。
機体がターミナルに到着し、とうとうあの呪わしいベルト着用サインが消えた。消えてくだすった。しかしだよ。ここでいきなり立ちあがっては、いかにもトイレを極限まで我慢していた人物のようではないか? 私にだって見栄はある。洒脱な男と思われたい。二度トイレに立ちあがったのも、ほんの気紛れ程度のお遊びだったと、周囲の人たちに思われたいのである。さらに一分ばかり、物憂いポーズで手許の文庫本を眺めたのち、ゆったりと貴族のごとくトイレットに向かった(ダンディズムとは一種の苦行である――ボードレール)。しかしまあ……危ないところでした。どう危なかったかは詳しく述べないが、とにかく危なかった。
かくして、すがすがしく生まれ変わった私は、堂々と胸を張ってトイレから現れ出た。いまや私は無敵である。怖れるものは何もない。するとだ。
かのアテンダント嬢がツッと歩みよってきて、わざわざ私に言ったのだ。「お待たせいたしました」。余計なお世話だよ。そりゃズイブン待ったけどさあ、私が尿意と戦って、そこで勝とうが負けようが、あなたには何の関係もないではないか。もうハッキリしたぞ。あんた楽しんでやってんだな。放火魔がかならず火事場に現れるがごとく、トイレを済ませた私の顔を確認しにやって来たんだな。そう思ったけれども、文字どおり体の奥底まで見透かされているこちらの方が圧倒的に不利である。なんだか幼児にでもなったような気持で、のっそりその場を後にしたのであった。嗚呼。バタイユよ、ユイスマンスよ。
羽田空港到着ロビーに着くと、そりゃもう到るところにトイレがあった。行きたい人はどんどん入ってゆく。用のない人は当然、急ぎ足で素通りである。トイレとは本来こうあるべきものであろう。私は常々刑務所には入りたくないと思っているが、それは犯罪を避ける気持よりもむしろ、やりたいときにやりたいことが出来なくなるという、その不自由さを怖れるからである。飛行機はじめ乗り物全般が苦手なのも、どうやらこの理由が一番大きい。出不精には出不精なりの理屈があるものなのだ。
なるほど、フライトアテンダントは大変な仕事であろう。安全確認の義務もあろう。しかしである。その鬱憤を、俺の膀胱で晴らすのだけはやめていただきたい。私は団鬼六のキャラクターではないし、O嬢でもないのである。
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