「俺とお前は同じ主人から生えた右手と左手だ。姿かたちは似ていて重ねることはできても、握手だけは適わない。」
どうだろう。それっぽい台詞に聞こえないか?
高校生真っ只中、「オルタナティブ」って単語に取り憑かれた。知らず知らず首からぶら下げられた板に「オルタナティブ」と書かれているのに気付き、おいこりゃどういう意味だ?と首を傾げていた。同じ頃、すぐ下に一文が書き加えられた。「ポストモダン」、と。やはり俺は、首を傾げた。
手に取り気に入ったものをしげしげと眺め、パッケージを裏返してみてみると決まってこの二つが記されている。用語の使われ方も、単語それ自体の意味も理解できずにいた。思えば”概念”という代物との最初の出会いがこの二つだったのだろう。未開の地で戯れていた気でいたが、そこには先行して人々が暮らしており、俺には窺い知れない文化的な身振りや語り継がれてきた歴史、今もなお続く住民間での混乱といったものとの出会い。俺が踏み込んだ領域は俺にとって未開ではあれ、無人島でもなければ孤島でもなかったわけだ。
しかし、片田舎で”出たり入ったり”に夢中の当時の俺に”オルタナティブ”と”ポスト”という”概念”は独特の「響き」に終わり、それが何を示している言葉なのか掴みきれぬままに過ぎ去って行った。ただ、目立つニキビに触れるたびにその二語が頭を過るように「俺という全世界」の問題に何かしら光を与えるものなんじゃないだろうか、と漠とした期待を抱いていたのも確かだった。
学校での友人間での悩みや将来への夢想、恋愛のアレコレとは全く別のところで俺は泣いていたし、独特のイラつきを持て余し、複雑さや多様性を受け入れがたいものと感じていたし、それらにどう折り合うべきなのか考えたり唸ったりしていた当時。
複雑さや多様さを受け入れることは、俺と彼女に加えられる「”独創的で/ありふれた”暴力的な出来事」を悉く正当化しちまうし、俺はそれだと怒ることもできずに去勢されちまう。そんなロールシャッハ風の「白か黒か」の世界は大学休学明けに雑誌を作るまで続いていた。
ロールシャッハ。
俺がそんな”当時”に見ていたならば、確実に唯一無二として植え付けられたであろうヒーローの名だ。白地に垂れたインクの染みのような他愛もないヒーロー。背景に流れるのはSWDの「KILL THE SUPER HEROES」。
本来挿入すべきあらすじや世界観、キャラクター紹介その他諸々は省く。本編を見れば明らかなことだ。もしくはネットでもうろつけば目に入る。”公式サイト”ってので紹介される類の内容は省いたっていいだろう。WIKIでは弾かれる個人的見解てのを誰彼構わず俺は語り散らかしたいんだよ。
さて、地雷原から始めてみよう。
仮に、こう考えてみたらどうだろう。
「ダークナイトのジョーカーが彼独特の哲学を保持したままヒーローになったとしたら?」と。
バットマンを相棒にヒーローとして活躍したら、どうだろうか、と。
ダークナイトに於いてバットマンとジョーカーが示すのは「ヒーローには必然性はなく、ヴィランには彼がマスクを着けるだけの実存がある」ということだ。
スパイディーにせよXメンにせよスーパーマンにせよ、通常ヒーローは「皆がそう扱うから、俺はこの役を引き受けてるんだ」と云うニーチェ流の”奴隷の道徳”者だ。彼は自らの場を積極的に引き受け、自ずと主人として振舞うのではない。
ヒーローとしての必然性は”奇跡”としてのみあり、通常は求められるから応えるというスタンスだ。マスクは彼の抑圧を体現している。素顔の表情にはクラークケント風の虚像に満ち、マスクを被れば「私は仕方がなくやっている」というジェスチャーで溢れかえる。ヒーローを支えるアイデンティティは彼の内にはなく、ヴィランの実存がヒーローのそれを支え、ヴィランは彼の触れた者の本性を露にする。
肝心なのは抑圧された仮面の下にあるのは、何もない虚無が広がっている、ということだ。「抑圧された素顔」という雰囲気が示すのは、「あたかも何かありそうだ」という思わせぶりな身振りであって、その本質は「抑圧されたものなど、何もない。マスクを剥げば、私は誰でもない」という空白だ。マスクの下に”正体”があるのではない。スパイディーの正体は新聞記者の冴えない若者、ではなく、宣伝されているように「彼の正体はスパイダーマン」なのだ。しかし彼本人は自分の真の姿はマスクの下に隠してある、と嘯くのだ。
バットマンの特異さはその素性は明らかに通常ヴィランのそれであり、本来打ち倒されるべき側の人物だ、と云う倒錯だ。その誤魔化しや齟齬がジョーカーという”光”に照らされ明らかにされかけるそのスリル。
ヴィランは己の必然性を引き受け己の在るべき姿をマスクの上に露にし、正当な主人として振る舞い、ヒーローはその姿を抑圧という身振りで、あたかも中身が在るかのように振舞い、かつ、奴隷の身振りで主人の座に着く。
バットマンと云うヒステリアから症例を省き、成れるからなった哲学なきヒーローとしてナイトオウルはいる。父の莫大な遺産を引継ぎ、その財力を己の趣味に傾倒させたインポ野郎。バットマンからヒステリーを取り除いたならばこう在るだろうという性倒錯者。真に愚劣で悪。ロールシャッハなら、そう言うだろう。
ただ、だからこそ、ナイトオウルはヒーロー足りえる。彼に必然性はなく、”アメリカンドリームの体現者”という役割と、与えられた責任を全うしようとする必然なきヒーロー。時代を反映し、歴史に沿って正義を執行しえるガランドウのアメリカンヒーローだ。
そうして、ロールシャッハがいる。
バットマンが本来ありうるべきではないヒーローだったのに対し、ロールシャッハもやはり、本来あるべきではないヒーローとして在る。
彼にはロールシャッハとしての必然性があり、世界を呪い、街を呪詛し、人々を嫌悪する。
スーパーパワーを手に入れ彼はヒーローとして在るのではない。彼は彼の意思の力のみでそこに踏みとどまる。ヴィランとして振舞う奔放さを捨て、不機嫌な禅の修行者のような忍耐力を持ち、彼は嫌われ者のヒーローとして生きる。バットマンにはジョーカーと云う相棒がいた。けれども、ジョーカーがヒーローになってしまったなら、彼自身の空白を誰が埋められるだろうか。彼の横には間抜けな倒錯者がニヤニヤ笑っているだけで、彼は孤独で、孤立している。
「奴隷の道徳者」と云う物語全般を覆う”アメリカンヒーロー”という概念を体現するコメディアン。「この愚劣な世界の悪い冗談」として振舞う正直者の死が意味することは一体何か。
物語の幕はロールシャッハレポートのナレートで上がる。「N.Y.で一人のコメディアンが死んだ」。物語を通し”コメディアンと云うヒーローの死”は”ヒーローと云うコメディアンの死”を提示していくかのようだ。
おまけ。
ここに現在のアメリカを見出す調の話は容易い。
どんな作品も時代を反映する要素は見出せるし、むしろ時代から抜け出した物語自体を描くことは困難な作業だろう。例えば日本は放射能からゴジラを生み出し、対するアメリカはスパイダーマンやハルクを生み出した、といった具合に展開するのは容易い。ただ物凄く空々しく聞こえるのは気のせいか?この手のは必ず自己批判なしの正当化に終わる。それでいて気軽に多様化を受け入れ、複雑さを強調する。まるでそこには一切の痛みが伴っていないように聞こえてしまう。ひどく、嫌だ。
ロールシャッハの素顔を見たとき、正直落胆した。なんて・・・冴えない野郎だ・・・、と。が、驚くべきは彼がマスクを奪われた、その後だ。マスクを奪われても尚、彼はロールシャッハ足りえた。気が付けばマスクと下の素顔は二重化して見え、ロールシャッハは彼でしかありえない説得力を持たせた。スクリーンには映っていない、見えないものを見せる役者の説得力。ヒースレジャーは確かに凄かったが、ロールシャッハも相当なもんだって。凄いんだって。本当に。
もう一つ。コメディアンのかつての宿敵モーロク扮するのはなんとマットフリューワー。そういや「ドーンオブザデッド」にも似た雰囲気で出てたな・・・と思ったら、同じ監督じゃねえの。日記で勘違いして書いてたが、これが三作目だったのな。「マットなんたらって誰?」って奴。エディスンカーターを知らねえのか?ったく、出直して来い。
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