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DIARY of the DEAD2007年:95分:アメリカ
DIARY of the DEAD

+INTRODUCTION+
ゾンビ映画の巨匠ジョージ・A・ロメロが放つサバイバル・ホラー。 世界各地で死者が蘇り人間を襲っている、というニュースを聞いた映画撮影中の学生グループが、様々なメディアの情報が錯綜する中で迫り来る終末的惨状を目の当たりにするさまを、主人公たちの主観撮影によって臨場感あふれるドキュメンタリー・タッチで描く。 10月、ペンシルヴェニア州。ジェイソンら学生グループは映画学科の卒業制作のため、山奥でホラー映画を撮影していた。 だがその最中、ラジオから衝撃のニュースを聞く。それは、世界中で死体が息を吹き返した上、人間たちに襲いかかっている、という俄に信じられない内容だった。 そしてジェイソンたちは山を下りると、本当に蘇った死者が人を襲う戦慄の光景を目撃する。 また、メディアも混乱し、事態は沈静化に向かっている、と虚偽の報道を繰り返す一方、インターネット上の動画共有サイトでは、断片的ながら凄惨な現場の映像が次々に流されていた。 そこでジェイソンたちは、この惨劇をビデオカメラで克明に記録して後世に伝えようと決意し、絶えず身の危険が迫る状況下で撮影を始めるのだが…。 引用元:ALLCINEMA

監督+脚本
ジョージ・A・ロメロ
撮影
アダム・スウィカ
美術
ルパート・ラザルス
特殊メイク
グレッグ・ニコテロ
ガスライトスタジオ
出演
ミシェル・モーガン
ジョシュ・クローズ
ショーン・ロバーツ
エイミー・ロランンド
スコット・ウェントワース
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REVIEW by 前原一人


 スターリングとギブスンによる「ディファレンスエンジン」は第一から第五までの反復を経てその自己言及性を明らかにする。 自己言及性を物語ることに求めた機関は自己にまつわるエピソードを積み重ねる。
 繰り返し語り継ぐことで「語る私」と「語られる私」の二者を同一の「私」へと近づけていく。 繰り返し試算することで精度を確かにし、真理値へ漸近的に近づける。  カオス理論のフラクタルな一致。
 ピッツバーグの映画青年が撮った「DEATH of the DEAD」とピッツバーグの老監督が記した「DIARY of the DEAD」。 物語形式として選択された日記体ゆえに「DIARY」が冠せられただけではあるまい。 自己言及が物語ることによって果たしうるかもしれないならば、この”日記”はピッツバーグの映画青年から老監督になるまで書き綴った彼を巡る物語だろう。
 そう、誰よりも「of the DEAD」に愛し呪われたでっかい眼鏡のあの男だ。
 そしてこの男が、俺は大好きだ。君だって好きだろう?

 「ゾンビ映画」を語る上で外せない嗜好/志向性ってのがある。 これは確実にある。 いわば、ゾンビ映画に求めてしまうものだ。
 例えば「ゾンビは走らない」とか「頭が弱点」とか「原因を追究しない」とかさ。
 が、何より重要なのは、「世界の終わりを描くためにゾンビが在る」ってことじゃないだろうか。 肝心なのは”終末”を描くことと”ゾンビを撮ること”がイコールであることだ。
 人類を脅かす破壊兵器ではなく、地球を壊滅させる宇宙からの脅威でもなく、古の封印された厄災を招く呪いでもない。 ゾンビを撮ることのみが”終末”を描ききることができる。 ゾンビ以外で描かれるそれはアクションであり、アクションを成立させるための条件であったり物語内背景としての”終末”であろう。
 ゾンビ映画の醍醐味は条件や背景ではなく”終末”が描かれることにある。 ドラキュラやウェアウルヴ、フランケンシュタインの怪物や半漁人のようなモンスター/キャラクターとしてのゾンビではなく、”終末”として描かれるゾンビ。

 「ゾンビ=終末」とはつまり、ゾンビが表現しているのは、モンスター/キャラクターではなく「世界の体現」であろう。 こうしてみた時、物語前半恐れていた筈のゾンビと、物語り後半目を背けたくなる人間への転倒、生ける屍と生ける者の本質的な差のなさへと収斂するロメロゾンビ映画の特徴が浮き彫りになる。
 生ける屍だけをゾンビ、として括るのではなく、人の行為としてゾンビを再定義した際、そこに生死の境は文字通り無意味となる。 サヴァイヴするための知恵や行為、選択や判断が暇つぶしから娯楽を経て惰性に至る麻痺の過程。 サヴァイヴから生まれるテクニックとテクノロジー、それに対するサヴァイヴから遊離したテクニックとテクノロジー。 迷いの中から決断される編集判断と娯楽としての記録画像。 感覚的な判断をいかなる時点で優先させるか。
 「DIARY of〜」ではこれが執拗に問われ続ける。 繰り返し試算される中で精度を高めるかのように幾度となく殺すかどうかを問う。 (殺す前に決め台詞を一度も言わないんだよ?信じられるか?)  ゾンビ、生ける屍によって描かれる終末が特異なのはこの点かとも思う。
 大いなる悪によって訪れるのではなく愚かさが終末を招く。 都市機能の停止から個人単位の思考停止へと至る混乱と惰性が至る混沌への物語。 社会的生物としての人間のだらしなさが毎度皮肉たっぷりに描かれる。 颯爽と現れるヒーローも立ち上がる大統領も登場しない。

 生ける屍の背負うテーマみたいなんは自明だろうからこれ以上クドクド語ることもないんだろうけれども、なんつってもロメロゾンビ映画だからユーモアに溢れ皮肉が利いていてばっちり面白い。 ロメロが警察署長役で出てくる辺りなんかは「ゾンビ警察」みたいな皮肉めいていてさ。よそのゾンビ映画に駄目だしする辺り皮肉ってんのかやとか考えちまう。 映画見れば十中八九耳の悪いサミュエルにステッキー!と悲鳴上げるだろうし飲んだ暮れ中年教授の弓捌きに呆れ返ったり見所満載。

 また、今回「DIARY of〜」ではロードムーヴィーとしての側面も垣間見える。垣間見えるって程度でロードムーヴィーって感じはないんだけどもさ。 所在なさげに移動しながら場に責任を負わない、無責任な態度ってのと刹那感ってのはロメロと相反するのかもしれないが。 次回はこっち行かないかな。ロードムーヴィーの形式で描いたら面白そうじゃない? 立て篭もりってのはこれまでもやはり繰り返し提示されてきたシュチュエーションだけれども、定住しきれない根無し草感を立て篭もりで浮き彫りにするんではなくロードムーヴィーでさ。 「RIDE of the DEAD」なんて黙示録の乗り手みたいでいい響きじゃないか。そんなゾンビ映画も見たいじゃない。

 ・・・と思ったら次回作は孤島を舞台にやるらしい!タイトルは「...of the Dead」!!!!

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