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『戒厳令』 1973年:111分:日本
「戒厳令」ジャケット

+INTRODUCTION+
昭和初期を象徴し、政局に影響を与えた2・26事件とその精神的指導者・北一輝の姿を描いた問題作。鬼才・吉田喜重がドラマティックな激動の時代を大胆に描く。主演は重厚な演技の三國連太郎。

+WIKI+
戒厳令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戒厳(かいげん、martial law)とは立憲主義に基づく法治国家において、憲法以下法令において定める国家緊急権(非常事態権)に基づき、戦時において兵力をもって一地域あるいは全国を警備する場合において、国民の権利を保障した法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権の一部ないし全部を軍隊の権力下に移行すること及びそれについて規定した法令をいう。

規定がある国ではしばしば、非常事態宣言と共に、軍部によるクーデターで活用される。

監督
吉田喜重
脚本
別役実
編集
岡芳材
出演
三国連太郎
松村康世
三宅康夫
倉野章子
菅野忠彦
飯沼慧
内藤武敏
辻萬長 八木昌子
八木昌子
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REVIEW by 結城一誠

【心に戒厳令を敷いて後ろを振り向け。】
あらゆる映像から不思議で奇怪な、或は呪いにも似た感覚を感受することは少なからず多い。
これは俗な話題で、ご存知の方もいるだろうが、かつて1970年代後半から1980年代中盤にかけて流れたクリネックスティシューのテレビコマーシャル2本がその映像と音響から「呪われたコマーシャル」として噂されたことがある。世に言う「クリネックスCMの都市伝説」である。一つは1978年に流れた天使に扮した女の子がティシューを空に舞わせ戯れているコマーシャル。映画「AKIRA」の音楽でも有名な芸能山城組の宗教音楽らしき曲をバックに、暗い映像、ひっそりと「クリネックスティシュー」のロゴタイプとナレーションで締められるというもの(1978年度ADC賞受賞作品)。二つ目は、女優・松坂慶子と赤鬼に扮した男の子がティシューを空に舞わせ心を通い合わせているという設定のコマーシャル。全体的に赤い映像で、ティシューが一枚空を舞うシーンは絶妙。スロウモーションで展開されるものだった。この時は、バックで流れる歌の歌詞が「死」や「呪い」を感じさせるものだと噂され、同時に赤鬼役の男の子とこのコマーシャルを撮影したキャメラマンが相次いで変死を遂げ、果ては松坂慶子がノイローゼになったという噂までが若者の間で流れた。実際、そのような事実は真っ赤な嘘であり、当時のクリネックスティシューの販売メーカー・十條キンバリー(現・クレシア)の広報も説明の際、それらの言説に触れず事実上否定している。とまあ、前置き長く泉麻人ばりの風俗的話題から始まったが、私見からすれば私はこういう「不思議で怪しいコマーシャル」ほど嫌悪感はなく、何の商品を宣伝してるのか分からないコマーシャルこその醍醐味と諧謔味を楽しむ傾向にある。これはコマーシャルのみならず他の映像などにも共通して言えることで、正に視聴状況に不快感を示す映画、映像作品には「一人でトイレに行って後ろを振り向けないほど」過剰に反応してしまう。
この映画も私の中ではその類のものであり、初めて観たときはあまりにも不気味で、その後三日間程はこの映画の映像及び音響世界に浸かったままだった。「戒厳令」。吉田喜重監督作品。初見時は圧巻だった。舞台は昭和初期、絶大な影響力を持っていた国家社会主義の思想人・北一輝の暗躍と彼の思想を尊崇する青年将校達に因る決起、そして北の処刑までを描いた作品である。この映画全編で北の存在は、周囲から浮き彫りにされた凄絶な貫禄にて半ば狂気に満ちた描かれ方をされている。そこで描かれしは人間・北一輝などではなく、怪物。有機体を装う無機金属質の怪物としてである。だから、怖い。北に対する存在のリアリティを持つことは現世出来なくても、この時点で感覚器官は頗る北の怪人ぶりを察知できる。この映画はモノクロである。掲げられる日章旗に朱は見られない。北の額から流るる血液にも朱は見られぬ。映画技術の進歩過程としてのモノクロ映画は現在では想像の宝庫といわれるが、この映画では敢えて効果的に白黒のみの映像で一切の有機的な色艶を排除し、別次元の空間として決裁している点が伺える。この諧謔味をまず痛感する。映像と音響による非日常的異空間の生成。こうなると飛躍かつひけらかしが甚だしいのだが、デヴィッド・リンチの「イレイザー・ヘッド」「エレファントマン」を想起してしまう。
映像・音響に導かれ、やがて北一輝とは一体何者だったのか。その疑問ばかりが無意識の内を侵蝕する。昭和初期の日本における戦前時代固有の国体の翻弄具合を映画の中では無駄に露呈せず、北一輝という一つ基軸を芯に周回する回転木馬の如く、ダイナミックな状況描写なくとも状況が狂える様相が見えてくるというのは正に奇怪。北と財閥。北と若者。北と天皇。北と国体。北とアジア。北と俗世の「盲点」。
求心力を集め同時に壮大な思想で国体の盲点を突かんとした北。北に心酔し、心に「戒厳令」を敷く、というまるで山奥にて冷たい湧水を口に含み身を浄め、再び辛酸を浴びんと姿勢を糺す心地さえ催す心的作用に具体的な精神の拠所を見出だした2・26決起当時の若者達の貌。音楽担当の一柳慧の編み上げる電子音響やピアノの旋律が、こうした容貌を硬質に収めた映像に対してより冷ややかな印象を与えているようにも思える。
この映画は1970年代の作だが、戦後は太平洋戦争時代の顛末に重ねて或視点で回顧、回想するものが多かった。作家の体験、思索を介して大きなテーマとして戦争が覆いかぶさっていた。しかし、同時に新たなる技術的な試み、幻想的な映像表 現、音響の電子化、アンダーグラウンドで非商業主義、邦画=実験映画というメタフィジカルな形式の端緒を築いた日本アートシアターギルドの旺盛など、テーマ性の強調からアート性の進展へと表現の主題が変化し出した時代でもある。そのため、悔しいほど怪しくも不思議な作品が1960、70年代には多い。それに比例して悪汁の強い作品も多くある。吉田作品は他にも「煉獄エロイカ」「エロス+虐殺」などがあるが私はまだ観ていない。だがいずれも外聞なら良い。しかし、こればかりは観てみないと分からない。
というわけで、映画のレヴューを書けば、いつも作品の印象を述べるに固まってしまうが、今回もいやはや全く固まってる。だけども今後も書いていくので、寄りついでにでも気軽に読んでって戴く他ない。宜しく。(追記:ちなみに前置きに出たクリネックスティシューのコマーシャルはYouTube等で閲覧できる。)

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