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『ジャンク・ショット』 [GOD'S LONELY MAN]:1996年:103分:アメリカ
「ジャンクショット」ジャケット

+INTRODUCTION+
この作品は96年サンダンス映画祭に正式出品され、その激しい暴力描写と、主人公の荒涼とした心の内面を映像として具体化して見せたところが高評価を得た。先日の学校内での銃乱射事件や、今、問題になっているインターネット上での幼児ポルノなど、好景気の裏側で病むアメリカの側面を鋭く描写している。 驚くべき事件の連続と病みきったモラルに対しての警告と、憤りを肌で感じることができる興味深い作品だ。

+SYNOPSIS+
アダルト・ショップ店員アーネストは、絶えず襲ってくる孤独と、自己破壊願望を紛らわすために、麻薬に溺れていた。 だから簡単に人を殺れる。なんでもできる。 ――そんなゴミみたいな男に成り下がっていた。 そんな彼の前にクリスティアーナという14歳の少女が現れる。 そして彼女には失踪した妹サマンサがいること、義父から性的ないたずらをされていることを知る。 こんな俺にそんな話を・・・。 こんな俺でも必要とされているのか――。 アーネストは、サマンサの捜索を開始、そして、ある秘密クラブで幼児ポルノ、殺人ムービーの上映会があることを知る。 そこで・・・。

監督
フランシス・フォン・ゼルネック
脚本
フランシス・フォン・ゼルネック
編集
ローレンス・マードックス
出演
マイケル・ワイル
へザー・マコーム
ジャスティン・ベイトマン
キーラン・マローニー
ポール・ドゥーリイ
ウォレス・ラングハム
ジィイミー・ウォルターズ
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REVIEW by 前原一人

 アーネストはクローム襲撃のジャック、もしくはニューロマンサーのケイスより一つ上。28歳。
 警察学校を出て(中退にせよ卒業したにせよ「出て」)LAに移り住みポルノショップでバイトをして暮らしている。
 店長の娘は大学進学とともにLAアーティストを店に連れ込み働き口を世話し早くもパトロン気取りで危うさを感じる。
 店には注射針を持ち込む輩やハッテン場に利用しようとするゲイ、碌でもない汚らしい客ばかりが集まってくる。
 そんな中神経質に職務をこなす。独房の看守のように客に規律を守らせようと視線を走らせ、ポリスマニアな雑誌を眺めてレジにて監視を続ける。
 わけも分からぬまま襲う嘔吐感。便所に走りこみ便器に顔をツコッミ吐く。
 週末はメキシコ人から買った8ボールとマリワナで過ごし強迫観念の虜になりながら過ごす。
 週明けバイト先でも妄執にどっぷりで店長の娘をセックスに誘い、当然気味悪がられ店を首になりどうにも行き詰った強迫観念は売人を撃ち殺させ徹底的かつ典型的なパラノイアに成り果てる。
 最低最悪のよくあるジャンキー。
 人生を終わらせようと銃口を咥え引き金を引く。
 今朝方メキシカンのプッシャーに弾倉全て埋め込んできたもんだから人生を終わらせる一発も残っちゃいなかった。
 極限の自己嫌悪は包丁を握らせ彼の小指を切り落とさせる。
 徹底的で典型的なパラノイア。
 そんな自家中毒なジャンキーの日常が延々ダラダラ続く。
 原題の「GOD'S LONELY MAN」。
 ”GOD'S LONELY MAN”と言えば映画で言ったら「タクシードライバー」のトラヴィスだ。
 あれも自分を指差し「俺は孤独な聖人だ」と吐いたっけ。
 エピグラフにトマス・ウルフ「孤独な聖人」の一説が映し出され狂騒的弦のノイズが入り込むオープニングから40分。
 延々続くかと思える日常に変化が訪れる。
 以前バス停で出会った15の少女と断酒会で再会を図りランチの約束をして彼女の身の上を知る。
 彼は飛びつく。
 助けたいとかではなく、いい人間になれるうってつけのチャンス到来。
 彼女は養父に虐待を受けていてその妹は現在行方知れず。
 妹の行方を彼女らが関係を持っていたセックス産業との繋がりにあると考えたアーネストは調査を始める。
 生活を一新し彼は彼は自分の人生を取り戻すため最後のジャンプを試みる。
 彼女をイカレタ父から逃がし、その妹を見つけ出すんだ。
 これを観たのはおりしも90年代が終わりを告げる新ミレニアム夜明け前、99年頃だったと思う。
 休学明け。
 頭の中には絶えず「俺はこんなところでなにやってんだ」と繰り返される疑問符を打倒しようと映画を撮ったり雑誌を作ったり小論文を書いたり精神病棟に出かけエンカウンターを臨床実験をかねて実践したりしていた時期だ。
 そう、まさに青春。
 青春の一言で片付けてしまってもいいがそれなりの葛藤ってのを繰り返していたわけだ。
 その在り様をアーネストの行動原理に重ねて観るから、俺はこの映画にえらく共感したのだ。
 主人公は今の俺と同じ、クローム襲撃のジャック、もしくはニューロマンサーのケイスより一つ上。
 アーネストが抱えるのは個人的に過ぎる問題だ。
 それは「アメリカンサイコ」のエリスが「ルールズオブアトラクション」で指したような、パラニュークが物語ったような、クープランドが、ウェルシュが見ていたような。
 その実存は彼とジオティックな環境としてのLAアンダグラウンドに絡むセックス産業の陰湿な闇が重なり、少女の行方を軸に物語られていく。
 アーネストがドラックだったというだけでセックス産業で蠢く住人もまた彼と同様の「虚無」を覆うため過剰な虚飾を装っているに過ぎない。
 「アメリカン4ドリーム」のアディクション。それと同じくセックスドラック暴力。虚無を隠蔽するアディクション。
 アーネストがどっぷりつかっていた不安、「退屈で孤独」という虚無。
 けれども15の少女が遭遇している現実的困難を前に彼の虚無は虚像として霞む。
 言ってしまえばここでの虚無なんてのは気分の問題んまのだ。
 それは現実的に虐げられ傷つけられた者の困難とは違う。
 そもそも別の問題であるからどちらが困難か、というのは比較にならない。
 けれども、彼の虚無は彼自身による自家中毒によって加速し困難さを増幅させている。
 彼は自分の虚無に正面から立ち会わず他人の現実的困難に首を突っ込むことで払拭しようとした。
 自分の似姿であるセックス産業の住人達に牙を剥き爪を立て徹底的に破壊することで彼は彼に罰を下し真の再生の機会を得ようとする。
 分かるだろうか。
 彼は自分の抱える虚無を払拭するために最初は警察官という彼の力のアイコンに頼った。  そこで起きたことは警察官には成りきれず、獲得し得なかった力へ憧れるだけで手に入れるための具体的な行動は放棄したままポリスマニアの雑誌を眺めてドラッグへ手を伸ばす。
 ドラッグは言わば保険だ。
 少なくとも最悪なのは俺自身ではなく、ドラッグのせいだと思える。
 自分のせいじゃない。
 ドラッグ産業が悪いんだ。
 誤魔化しはそう続くものでもなく破綻をきたし、次に彼が取った行動は少女に取り憑くことだった。
 彼女の怒りや不安、悲しみを我がものとし、彼女の困難を解決することで彼は退屈や孤独、それに付きまとう無力感を払拭しようと試みる。
 他人の感情を利用して虚無を誤魔化し、無力感を他人の現実的困難に首を突っ込むことで隠蔽する。
 何かに忙しければ退屈ではなくなる。
 誰かといれば孤独は紛れる。
 アーネストが抱える虚無は自由であることと不安であることが同じ状況であることを示す。
 90年代多くの”ロストジェネレーション”等と呼ばれたそれの所以もここにある。
 歴史の共有は個人的であるはずのトラウマの共有に換わり、本来個人が言語化することで乗り越えられていくはずのものが既に彼の外部で言語化されており、彼は彼にはまだそぐわない自己像を獲得してしまう。
 彼自身乗り越えてはいない当人の困難を他者の言葉で自分の身に何が起こったのか理解してしまい、他者の言葉を頼りに乗り越えた気になってしまう。
 そうして他者の言葉で乗り越え、他者の言葉を頼りに形成され新たに獲得された自己像は、似たトラウマを持つ者同士が受け入れ共感することで彼の社会的自己像をも形成していく。
 過去の社会的できごとの共有ではなくトラウマの共有による歴史認識。
 本来社会的自己像とは現実的な他者との間で了解される誤解と錯誤、勘違いによりできあがる像だ。
 けれども誤解と錯誤という社会的自己像を形成し獲得する以前に、その小さなコミュニティーでの自己像が社会的自己像として錯覚される。
  自分が自分をどうとらえているか、と社会的に見て自分はどう在るかがあまりに近く、自分を理解してもらえる範囲のみを「社会」として錯覚し機能させてしまう。
 当然コミットできる社会は限られる。
 本来ここで言う”社会”とはこれまででは仲間や友人という集団を指していた筈だ。
 そもそもが間違っている。
 自分の身に起きた出来事を外側の事象から拝借し了解した気になり、自分の身にしか起きていない筈の出来事を他者と共有してしまい、本来の自己像を曖昧に保留したままなのだ。
 彼が勘違いしている自己像を周囲は正しく理解しているが、彼本人が自身を誤解していることにまで周囲は気がつく筈もない。
 自分が自分を分かっていないし分かるため現実に直面もしていないのに、周囲は自分を理解してくれない、と自家中毒が始まる。
 彼自身自己を規定できずにいるのだから、彼は何にでもなれてしまう。
 社会により形成されるべき自己像が本来ならば彼にある程度の限界を見せ、彼がなんたるか示すものだがそれもここでは機能しない。
 何者でもない彼は、何者にもなれてしまう可能性だけを手に入れてしまう。
 その状況は自由とも呼べるが、規定しえないという状況は不安を呼び込む。
 ホラー映画を観れば不安という状況が良く理解できる。
 始め何が起きているか分からない状況と、何が起きているか分かっている状況。
 先の「分からない状況」とは例えば暗闇に蠢く影だったり、不意に現れる人影だったり。
 この状況下、登場人物たちは不安に怯え右往左往している。
 後の「分かっている状況」とは例えば昔から言い伝えられている殺人鬼がその正体だったとか、エイリアンの侵略だったとか。
 この状況下、登場人物たちは恐怖を感じながらもどうすべきか判断を下し行動する。
 不安とは規定されていない、分からない状況を言い、同時にそれが何であるかあれやこれやと可能性に満ちた状況でもある。
 人はその状況を自由というし、これは人が不安を抱く在り様と同じ構造を持っている。
 不安には耐えられないが恐怖の中でなら人は行動を起こせる。
 自己を規定し得ない自由なアーネストは、その状況を手放し安易にジャンキーという状況に自分を規定し、また、彼女のため、という状況に自分を規定する。
 彼は他人を利用しつつも人生を獲得する機会に恵まれた。
  彼は新たに掴んだ日常の中で自分というものを見据え始める。
 彼自身のオープニングが垣間見えたところでエンディングが訪れる。
 小説漫画アニメゲームロック映画互いの暗い過去。
 僕らが共有してしまったのはなんだろうね?

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