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『ヒストリー・オブ・バイオレンス』 [A HISTORY OF VIOLENCE]:2006年:96分:アメリカ/カナダ
「ヒストリー・オブ・バイオレンス」ジャケット

+INTRODUCTION+
ある事件をきっかけに夫の過去を巡る黒い疑惑が浮上、平穏だった一家が暴力と罪の渦に呑み込まれていくさまを、リアルでショッキングな暴力描写とともに綴る衝撃のサスペンス・ドラマ。同名グラフィック・ノベルを鬼才デヴィッド・クローネンバーグ監督が映画化。主演のヴィゴ・モーテンセンをはじめ、マリア・ベロ、エド・ハリス、ウィリアム・ハートら実力派俳優陣による迫真の演技合戦もみどころ。

+SYNOPSIS+
インディアナ州の田舎町で小さなダイナーを経営するトム・ストールは、弁護士の妻と2人の子どもとともに穏やかな日々を送っていた。そんなある夜、彼の店が拳銃を持った2人組の強盗に襲われる。しかしトムは驚くべき身のこなしで2人を一瞬にして倒してしまう。店の客や従業員の危機を救ったトムは一夜にしてヒーローとなる。それから数日後、片目をえぐられた曰くありげな男がダイナーに現われ、トムに親しげに話しかける。人違いだと否定するトムだったが、トムの過去を知るというその男は、以来執拗に家族につきまとい始める。

監督
デヴィッド・クローネンバーグ
原作
ジョン・ワグナー
ヴィンス・ロック
脚本
ジョシュ・オルソン
編集
ロナルド・サンダース
出演
ヴィゴ・モーテンセン
マリア・ベロ
エド・ハリス
ウィリアム・ハート
アシュトン・ホームズ
ハイディ・ヘイズ
ピーター・マクニール
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REVIEW by 前原一人

 アメリカの東。
 田舎町。
 ダイナーを営むトムと弁護士の妻。ハイスクールに通う長男とまだ幼い娘の四人家族。
 ダイナーを営むトムストールの前にチンピラ2人が強盗に押し入る。
 強盗を払い除けたトムは田舎町では英雄とされニュースが全土に垂れ流された。
 その事件を機に彼の身の回りで変化が訪れる。
 店は繁盛し、その大勢の客の中にマフィアがやってくる。
 片目のマフィアはトムをジョーイと呼び、人違いだと訴えるトムと彼の家族を執拗に付けまわし始める。
 トム役のヴィゴ・モーテンセンと言えばロドリンのアラゴルン。
 ヴィゴがおっかねえんだ。
 瞬きしねえの。
 監督のデヴィット・クローネンバーグと言えばこれまでのフィルモグラフィーを見ると一つの流れがあるのに気が付くだろう。
 想像と妄想、現実感と仮想。
現実と夢。此方と彼岸、  いずれも日常を送る我々には明確なようでいて、その実境界線は非常に曖昧な対抗図だ。
 「こちら」と「あちら」という関係をある立ち居地で眺めたならば非常に厄介なものとなる。
 (否、「こちら/あちら」という関係性は在る立ち居地に基づいた物の見方であるのだろう。)
 即ち、「ここ」という自立しえる立ち居地を持たないで「こちら/あちら」と考えた時、非常にやっかいなものとなる。
 「こちら」とは「あちら」ではないし、「あちら」とは「こちら」ではない。
 互いを否定しあうことで成り立ち、また「こちら」というのは「あちら」が存在して初めて成立し「あちら」も同様の構造を持つ。
 逆に言うならば、「あちら」なしに「こちら」は存在しえない。
 このような関係は「夫婦」でもいえる。
 パンとバターのような関係性とは全く異なるのだ。
 パンはバターなしでも存在しえる。
 が、夫なしに妻は存在し得ないし、妻という関係性を持たない夫も成立しえない。
 このように自立しえず関係性によって成立する対抗図式は「どちら」という問いかけに非常に弱く破綻しやすい。
 このことは、「全てが夢」という設問は系自体を破綻せざるをえないことを示す。
 「全てが夢」であるならば、夢が夢として自己言及しうる必要性がある。
 だが、夢とは「現実」との関係性によってのみ成立しているのである。
 夢が、それ自体なんであるかを規定している「現実」を排した時、「夢」は己の体系を維持できず成立しえない。
 仮になんとしてでも「全てが夢」を成立させたいならば、メタレヴェルの概念を対置させるほかないだろう。
 その力技も放棄した上で「全てが夢」という状況を描いたならば、我々はそれが夢であることにすら気づかないはずなのだ。
 以上の長い前口上は前作「スパイダー」を踏まえての話である。
 クローネンバーグ前作「スパイダー」ではまさに「全てが夢」という状況を描いた。
 が、これが成立しうるのは「観客」がいるからであ
る。
 先に触れた「メタレヴェル」とはスパイダーにおいての「観客」の役割であろう。
 「スパイダーを観ている観客」が存在しうるからこそスパイダーという映画は映画内部で「全てが夢」という状況を演出しえるのだ。
 なぜ先に前作スパイダーをこれほど遠回りして触れたかと言うと、 「ヴィデオドローム」、「イグジステンス」と続く「こちら/かなた」の極北として前作「スパイダー」があると思えるからだ。
 このようにクローネンバーグのフィルモグラフィーを観た際の06年、現在の最新作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」である。
 ヴィゴは瞬きをしない。
 物語の前半の軸はヴィゴ扮する善良な小市民トムが暴力の世界に生きるジョーイなのか?という謎を観客に投げかけ、その謎を巡り 物語は進む。
 友人湯魔が語っていたように今作非常に演出が「そつない」。
 演出の仕方が少し変わった気がする。
 これまでは「あざとい」メタファーが多かった気がする。
 日常風景からやや離れた「異物」の挿入により伝えんとする事柄が表現され、比喩を比喩するようなあざとさがあったかと思う。
 それが同時にクローネンバーグのケレン味という
か画面に現れる癖だったかと思う。
 比喩による異物の挿入ではなく、画面内の情報を用い今目の前で流れていく台詞や効果音、役者の表情という演技で忍ばせてくる。
 例えば、うっとおしい蝉の鳴き声はカーステレオでフェードアウトするシーン。
 幼い娘が悪夢に悲鳴を上げるシーン。
 ここでトムの初登場なのだが、まず、オープニング、ギャング2人の暴力シーケンス。
 ギャングの放った銃声が尾を引き娘の悲鳴に被りながらトムの娘、サラのアップへとカットが移る。
 サラは身を起こし目を見開き悲鳴を上げている。
 と、サラの全身を影が覆う。
 その影の主は娘を心配し部屋に現れたトム。
 主人公の初登場シーンだ。
 娘のお化けがを観たという訴えをトムは夢をみたんだ、と否定する。
 次に悲鳴を聞きつけた長男ジャックがサラの元に現れる。
 トムがサラを抱きしめている横に腰掛け、サラの見た怪物を「影お化け」となづける。
 怖そうに見えるが明るいところではなにもしない、とこれから先の物語を暗示するやりとりが交わされるのだ。
 そこに妻が現れどうしたの?と尋ねる。
 と、トムは「お化けの夢を見たんだ。いやしないと
話していたところさ」と返すのだ。
 が、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」ではそのあざとさは感じれられない。
 比喩ではなく暗喩を用いた演出に切り替わった気がするのだ。
 細々な暗喩がどんどん積み重なり暗喩の重さに耐え切れなくなったかのように物語は中盤から新たな展開へと突入する。
 ここに来てヴィゴがトムとジョーイという「こちらとあちら」を行き来する様を見せ付けられる。
 これは新しい。
 クローネンバーグは常に「どちらか?」という疑問符を主人公に付与していた筈だ。が、ここでヴィゴは疑問符を持たない。
 従来ならば「俺はトムなのか?、ジョーイなのか?」とヴィゴは悩んだはずだ。が、ヴィゴは言い切る。
 「ジョーイではない」ゆえに「トムなのだ」と。
 しかし、画面ではまざまざとジョーイが息づきはじめ、お前は一体どっちなんだ?と観客の俺に疑問符が付き纏う。
 エンディング、全ての態度はあまりに曖昧で一体どちらかなのか分からなくなってしまう。
 「こちら/あちら」の新しい設問がなされているかのようだ。
 物凄く静かな驚愕のエンディング。
 全体として一見ありがちなドラマなのだが、否。
 このドラマはクローネンバーグのみが撮りうるドラマだろう。
 これは次に一体どんなものを撮るのか物凄く気になる作品だ。
 「スパイダー」と「ヒストリー・オブ・バイオレンス」。
 これまでとは毛色も違うし、実際「クローネンバーグ鑑賞後」の印象もこれまでとはまるで違う。
 が、だからこそクローネンバーグを追っかけてきた人たちには観ていただきたい。

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