結城一誠過去作品展示
INDEX ABOUT INFO CONTENTS ARCHIVE BBS LINK
MOVIE REVIEW: TOP > INDEX > CONTENTS > REVIEW
『HAZE』 [HAZE]:2006年:49分:日本
「HAZE」ジャケット

+INTRODUCTION+
05年8月ロカルノ国際映画祭コンペティション部門でワールドプレミア、各国の映画祭で絶賛された「ヘイズ/HAZE-Original Long Version」。「鉄男」「東京フィスト」「バレット・バレエ」「六月の蛇」と都市と肉体をテーマに撮り続け、「ヴィタール」で肉体の内部に降り立った、ベネチア国際映画祭審査員を2度歴任の“世界のツカモト”塚本晋也の衝撃の最新作だ。
本作は塚本初のオールデジタル作品。フィルム映像にこだわり続けてきた塚本が、小型のビデオカメラで、極限的に狭い空間を奔放に撮った。粗い粒子のハードエッジな映像に、超恐怖が、生命のエナジーをたきつける。
監督、脚本、撮影監督、美術監督、編集、そして主演は塚本晋也。ヒロインに「東京フィスト」の藤井かほり。音楽を塚本作品の常連・石川忠が担当し、「鉄男II」以来の激しいビートが観客の肉体と魂をかきむしる。
凄まじい映像にどこまで耐えられるか!閉じ込められた男と窒息することなく行動をともにできるか!
塚本映画に本気リンク。恐怖の果てを体感増殖。駆け抜けろ。生命あれ。

+SYNOPSIS+
男が目を覚ますとそこは”壁の中”。
ざらつくコンクリートの質感に肉体を摺り切らせながら”そこ”からの脱出を試みる。
途中で目にする様々な異様な光景。出会う謎の女。
”ここ”はどこで一体なんなのか。
彼は果たして無事抜け出し謎の解明が成されるのであろうか・・・。

監督
塚本晋也
脚本
塚本晋也
編集
塚本晋也
出演
塚本晋也
藤井かほり
村瀬貴洋
神高貴宏
辻岡正人
さいとう真央
CURRENT INDEX
AHEADINDEX
REVIEW by 前原一人

物語はこうだ。
塚本晋也演じる主人公が理由も分からないままコンクリートの拷問と地獄を巡る。
導入はヴィンチェンゾ・ナタリの「CUBE」を思い浮かべる。
「CUBE」は頭を、「HAZE」は肉体を使う。
この違いが全体をまるで似たところの無い作品にしていく。
と、HAZEについて具体的に触れるのはまず置いておいて、塚本晋也監督初デジタル作品。 この点にまずは注目していきたい。
「デジタル」と云うことに注目が集まるその理由。
アナログとデジタルの違いとは何か。
そしてこれまで全ての作品をフィルムで作り上げてきた監督がデジタルに移行した理由は何か。
「映画っぽさ」はフィルムによって植えつけられた。
映像を観た時「映画っぽいな」と感じられるのは作品のテーマや役者、スクリプトの妙や構成の巧みさではない。
僕らの視覚が「映画っぽく」感じるか否か、がまずあり、それはフィルムによって植え付けられた。
フィルムとデジタル(もしくはヴィデオ)のこれまでの大きな違いの一つはスクリーンへの像の映写のされ方である。
フィルムはスクリーンに秒間24コマが映写される。
一方デジタルヴィデオ方式では秒間30が基本だ。
次に「流れ方」ではフィルムは(24P方式)一コマ一コマスクリーンに映写する。連続した写真と言える。
デジタルヴィデオでは(NTSC方式)一枚絵ではなく走査線により徐々に映写される。
大雑把に言えば半分ずつ映写される。
一コマ一コマ完成された絵が映写されるのではない。走査「線」により半分が映り、次の半分を流す。
ヴィデオの30コマを正確に言えば60の走査線が流れ秒間30コマを擬似的に作っている。
フィルムとデジタルヴィデオでは実際映っている画像が違うのだ。
僕らの目ではそれを視認することは適わないがデジカメなんかでテレビ画面を写すと走査線の動きが確認できるだろう。
実際現在の映画館の多くはフィルムをかける映写機よりもビデオテープを用いた映画館が断多い。
98年頃良く遊びに行っていた映画館の映写室ではまだ巨大な映写機を使っていたが、これからはビデオテープで流すんだよ、と言っていた。
やはりフィルムよりも移送が楽なのと、一本のフィルムが描く映画館を巡業していく間に起きる劣化を考えるとはるかに効率的だろう。 シネコンが成立するきっかけを与えたのもフィルムを用いた映写機、ではなく、このテープで映写可能な技術によるものだ。
デジタルヴィデオカメラで撮影された映画を「滑らか過ぎる」と感じ映画っぽさが損なわれる、味がない、と言われるのはこのテクニカルの違いによる。
また、世代によってはフィルムの質感が「古臭い」とかんじるのも同様だ。
一方国内有数のフィルム業界はその生産から手を引き、現像所も海外に頼まなくてはならないような時代が到来した。
けれどもテクニカルで生じた困難ははテクニカルで回避する。
SONY並びにPANASONICが最近出したカメラでは24Pで撮影、対応機種によるPC上での編集が可能となったのである。
今回塚本監督はPANASONICのDVG100Aで撮影し、FINALCUTPROで編集という編成だ。
今回のHAZEでデジタルカメラを選ばせたその理由には、フィルム撮影が困難になったこと、そしてデジタルで擬似フィルム撮影が可能となったことがあげられるだろう。
そしてHAZEを撮らせた理由にはまずデジタルカメラのガタイが小さいことが推測される。 HAZEではなによりこのカメラの小型化が貢献している。
今回の舞台はひたすら狭い。可能な限り狭い。
ぴたりとサイズの合った人型コンクリートの中であったり、寝転ぶだけのスペースしかない超低天井。
胸板程しかない薄い壁の間、体を折りたたまなくては入り込めない通路、とどうしようもなく狭い。
閉所の苦手な僕は開始早々「観に来なけりゃ良かった」と思う息苦しさだ。
この画を35ミリ用フィルムカメラで撮るには相当大掛かりなセットが必要だろう。
カメラの小型化により予算も抑えられGOサインが出たとも言える。
少しこのまま大回りして塚本作品をぐるっと巡るようにしてしばらく寄り道をしていきたいと思う。
前作「ヴィタール」で監督も言っていたし、僕自身も一区切り付いた観があった。
「鉄男」から始まり「ヴィタール」で終わる、否辿り着いた一つの塚本映画の流れ。
この「流れ」というものについて触れていきたいと思う。
「流れ」のある監督というのは僕の見た映画では珍しく思う。
似た印象の監督を並べ対比してみると、デヴィット・リンチ監督と庵野監督のフェチズム。
デヴィット・クローネンバーグ監督と押井守監督のマニアックさ。
ラース・フォン・トリアー監督と塚本晋也監督の流れ。
初期トリアー監督の「エピデミック」、「エレメント・オブ・クライム」、「ヨーロッパ」。
これは後に「ヨーロッパ三部作」と呼ばれ、また「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、「イディオッツ」が「黄金の三部作」、現在公開中の「マンダレイ」を二本目とした「ドッグヴィル」から始まる「アメリカ三部作」。
想うに初期「ヨーロッパ三部作」では偶然による観念による一連の流れであり、現在の「アメリカ三部作」のように強く意識されたものではなかったのではないだろうか。
自己の作品の一連の流れをある時点で把握し、意図的に再構成し、そこから自作を練る。 「ヨーロッパ三部作」から取り出せるキーワードは「歴史」と「映画的物語作法への懐疑」かと思う。
映画的物語作法への懐疑は、物語の語り方と物語自体を密接に結びつけることで、「主体の剥奪」と言う結末で物語自身と観客を巻き込んでいく。
「映画的物語作法への懐疑」は物語の手法というところで留まり、結果として物語の構成に影響が現れ主体の剥奪という共通した結末を生んだ、ともいえる。

「ヨーロッパ三部作」のもう一つのキーワード「歴史」ではトリアー監督の歴史に対する懐疑が含まれているだろう。
歴史とは「記述されるもの」である。
歴史とは必ず「○○の歴史」として接頭語を呼び込み記述される。
例えば「俺の歴史」、「日本の歴史」といった具合にだ。
この接頭語を呼び込まざるをえないということは歴史の記述者に「カテゴライズ」を迫るということだ。
接頭語のない「歴史そのもの」を、区分せずに歴史を記述することは不可能である。
それゆえ、記述者は可能な限りフラットであることを求められる。
が、そもそもそれは可能だろうか。
「エピデミック」、「エレメント・オブ・クライム」、「ヨーロッパ」。
歴史(「エピでミック」)や事実(「エレメント・オブ・クライム」)、記憶(「ヨーロッパ」)が語られ、そのバイアスが直接フィルムに現れる。
主人公は語ることで騙ることになり、真に起きたという意味での歴史は主人公と供にグズグズに崩れ、最終的に「語りえないもの」として消失していく。
「映画的物語作法への懐疑」は「黄金の三部作」で「ドグマ95」というトリアーが中心となり結成された映画秘密結社の中で、物語内部ではなく外部に回答を求めたのは自然な流れであったろう。
つまり映画的物語作法を映画の撮影方法により作品を作るのではなく、「ドキュメンタリー」の撮影に近づけた。
撮影方法を限定し作られたのが「黄金の三部作」だったのではないだろうか。
(例えば照明は用いない、全てロケーション撮影、音楽は用いない等など)
「歴史」というキーワードは「アメリカ三部作」においては、主役に内面を語らせない(=騙らせない)主体を廃した「舞台」形式に近づけ、また、役者に極度の緊張と疲労を強いらせる、ほぼ精神分析学的実験に近い形で彼らに役作りならぬ人格形成を迫り、その彼らに状況、環境を与え歴史を再現するような試みなのではないだろうか。
トリアーについてやたらとながくなってしまったが、監督の作家性というか、「流れ」をこのように俺のバイアスをかけてみた時、塚本監督はいかなる流れを作品にしてきたか見ていきたい。
というところで紙面が尽きた。
次回へ続くぞ。
それまでに塚本監督作品、もしくはトリアー「ヨーロッパ三部作」を観るのをお勧めする。 どれもスゲエ映画だし、僕は狂うほど面白いと思う。
だからこれを機に観てくれよお。

Copyright c2007 FLYER All right reserved.