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BOY IN THE BOX[箱の中の少年]:2006年:30分:日本
「BIY IN THE BOX」ジャケット

+INTRODUCTION+
“BOY IN THE BOX”はスクリーミング・マッド・ジョージが生み出したファンタジー映画の新しいジャンル「サイコ・フィクション」の第1作目の作品である。「サイコ・フィクション」とは人間の深層心理によるコンプレックスや精神病による肉体的影響、そして我々の観る「夢」に於けるシンボリックで隠された意味の抽象的表現などをコンセプトにしながらも、難解な「アート作品」という監督のマスターベーションにならないように、娯楽作品として重要な物語性を重視し、退屈させないで面白く、考えさせられる作品群のことである。つまり純粋芸術とコマーシャル芸術という相対する2つの芸術の最大公約数、それらの最良なる結合を目指すジャンルなのであります。
関西弁の吹き替えにはぼんちおさむ、楠見薫(サウスパークのカイルの声)、「劇団・往来」の要冷蔵、「劇団そとば小町」の中西邦子、桂きん太郎と大野紘美が担当した。オリジナルの台詞のニュアンスをより自然に、より解りやすく、より笑えるように標準語バージョンはオリジナルの訳から25%位の違いで、関西弁バージョンは50%位違えて完成させました。とにかく下品でエゲツナく,クールで残酷な悲しい物語です。(作品資料より)

+SYNOPSIS+
希薄な記憶しか持たない箱の中の少年、ジョージが小さな鍵穴を通して覗いた視点からシンボリックでシュールな家族の日常生活が展開される。ジョージは一つ、また一つと目玉を捕えて飲み込む事により家族一人一人の視点を体験し、家族に起こった悲劇の謎を追求して行く。

監督
スクリーミング・マッド・ジョージ
脚本
スクリーミング・マッド・ジョージ
編集
スクリーミング・マッド・ジョージ
エイミー・リンドン
アナ・キャンベル
ミルトン・パパジョージ
大阪弁バージョン
ぼんちおさむ他
標準語バージョン
協力ワハハ本舗
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REVIEW by 前原一人

スクリーミング・マッド・ジョージ(以下SMG)が提示したのはSFはSFでも、サイエンスフィクションではなくサイコフィクションだ。 (インタビューでSMGが言ってたの)だったらSFではなくPFだろう、とツコッム前にPSYCHOにならいこの言い間違いからサイコフィクションとはどのようなものか考えてみよう。
SF映画の多くが次の特徴を挙げられるだろう。
1:テクノロジーをきっかけや原因としてドラマが発生する。
2:クライマックスを迎えるきっかけや原因がやはりテクノロジーである。
3:これを英雄譚的プロットで描く。
3の英雄端的プロットについて触れながら1と2を補足しておこう。
英雄端的プロットとは「大切なものを守る」ことをきっかけとし主人公が覚醒する物語である。
「傍観者」の前半から「覚醒」を挟み、「英雄」として活躍するストーリーラインを構成する。
英雄端的プロットをSFで描くと、前半はテクノロジーがもとで主人公の世界は混沌に変わり、「大切なものを守る」ため立ち上がる。 後半覚醒者の用いる特有のテクノロジー(時折「アート」)を駆使し, 世界に秩序を取り戻す英雄として振舞いクライマックスを迎える。
スターウォーズであればデススターという「テクノロジー(技術)」による世界の危機、レイア姫との関係、フォースという「アート(術)」による秩序の回復。
マトリクスであれば「マシン」による世界の危機、トリニティとの関係、救世主の持つ「アート」による秩序の回復。
リべりオンやサイバーネット、レイザーサンクション然り。
(こう見ると「ある種の」サイヴァーパンク映画の特異性が浮かび上がる。)
さて、SMGのサイコフィクションだ。
SFとの言い間違いを考慮するならば、3の英雄譚的プロットを残し、差異が現れるのは1と2、ドラマやクライマックスのきっかけや原因がテクノロジーではなく精神に依拠すること、となるだろう。
「精神」をきっかけや原因としてドラマが発生し、クライマックスを迎えるきっかけや原因がやはり「精神」に依拠する英雄譚的プロットの創作物。
多分これがPSYCHOをSFと言い間違えたことから導き出せるSMGのサイコフィクションだろう。
「Boy in the box」には大阪弁、標準語ヴァージョンと二通りが用意されている。
下北沢最終上映日に行くほか無かった僕が観たのは大阪弁ヴァージョンの方だった。 怒涛の大阪弁と言うこともあったせいか情報の「量」ではなく「速さ」に、 又登場人物の造形の異様さも加わり物語りも僕も混乱しきったままたまま前半が続く。
では前半の流れをざっと見ていこう。
主人公は木箱の中にいて唯一の隙間、鍵穴からリヴィングを眺めており、基本はこの視点で物語りは進行する。
まずは登場人物の紹介がある。
頭が明滅する白色電球のパパ。やはり頭が鉢植えの花がパクパク動くママ。やはりやはり首から上が気分や思考を映し出すテレビの姉。 やはりやはりやはり頭部がセロハンテープの弟。
特異な人物造形に一切の説明も無いまま、かつ怒涛のごとく大阪弁で繰り広げられる圧倒的ディスコミュニケーションの嵐しが展開される中、主人公の少年が登場人物一人ひとりを紹介していく。
圧倒的スピード垂れ流される(パパが延々クソの話をするからまったくもって「垂れ流し」の会話が延々続く)家族の話題。
が、父が娘に、娘が母に、母が弟について話し言葉が宙を飛び交っても一度として箱の中の少年については触れることが無いままお話が進む。
まず、パパは仕事に出かける。弟が出掛かると車に引かれる。
姉の(多分)GIジョー人形の顔した恋人がズタボロになった弟を抱え笑顔で入ってくる。母と弟、姉の恋人は病院へ。
入れ替わりに主人公の少年が想いを寄せている右目に包帯を巻いたジェニー人形の顔した姉の恋人のの妹が「拾ってきてはいけない右目を肉腫に覆われた人面犬」を連れて家にやってくる。
姉と友人の娘は犬の餌を買いに出かける。入れ違いに先ほど病院に行った三人が戻ってくる。
犬に弟の手首が食いちぎられる。
姉の恋人が犬を成敗し犬を抱えて退場する。
ママは弟を連れて再び病院へ。
入れ違いで姉と友人が帰ってくる。
少年が想いを寄せる娘が「犬が箱になっちゃった」といって探し回る。
パパが木に吊るされ内臓をブチマケラレタ犬の姿を見て最近の若者に文句を吐きながら帰ってくる。
ママと弟、姉の恋人が家に戻ってくる。
前半は少年の見ていた世界、で後半から家族の見ていた世界が展開される。
姉と恋人の妹が犬の話をし、パパが拾ってきてはいけないのにと怒り弟の怪我をママが訴え、姉の恋人が犬をどんな目にあわせたかを話す。
少年が想いを寄せる娘と姉は抱き合い悲しみ、パパの頭の電球が明かりを消すと部屋の中に雨が降る。
箱の中の少年は「彼女を守らなければならない」と箱から出ることを決意する。
と、ここまで訳の分からないままお話が進んでいく。
少年の覚醒から後編へと入る。
精神を集中し自分が水のように柔らかくし鍵穴から今へ出ると、家の中は蜘蛛の巣が張り暗く、人の気配はまるでしない。
箱から出た少年は「拾ってきてはいけない犬」と同じ顔をしてる。
部屋には触手の生えた目玉が四つ飛び回っている。
その一つを捕まえると少年は目玉を口に放り込む。
と、目玉の持ち主の記憶が再生される。
そして、ママ、弟、姉、パパそれぞれの記憶が少年と家族の身に何が起こったのかを徐々に明らかにしていく。
何故少年は箱の中にいるのか。
一体家族に何が起きたのか。
それらの答えが明らかになった時、物語は終わり、スタッフロールが流れる。
前半が混乱に混乱し混沌の世界が繰り広げられる分、後半のほどけようと一応の秩序の回復は相当に気持ちがよかった。
けれどもSMGの巧妙さはエンドロールが流れても「何故少年の精神は混沌を呼び込むに至ったか」という最大の謎が残されている点ではないだろうか。
その答えを導くための材料は劇中にばら撒かれているはずだ。
例えばジェニー人形の娘が少年の箱を指し、あれには何が入っているのか問われた姉が「ママがとっても大事にしているから開けたことは無い」と応えるエピソード。 各キャラクターの造形に込められた意味等など・・・数え上げればきりがない。
と、散々デフラグ作業を行ったが、下品で下劣でグロくて笑える。
サウスパークのノリで楽しめることは間違いない。
映画館で他のお客さんと品の無い笑い声上げたのって久方ぶりだったなあ。 それだけでも価値の在る映画でした。 ヴィデオになったらピザ用意してシャレのわかる友人呼んで観るのがいい。 きっと楽しい30分だ。

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