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『シモーヌ』 [S1M0NE]:2002年:117分:アメリカ
「シモーヌ」ジャケット

+INTRODUCTION+
究極の美貌と演技力で世界中を虜にした完全無欠の女優が、実はCGだったことから巻き起こる騒動を描いたコメディ。落ちぶれた映画監督が、ひょんなことから手に入れたCGソフトで完璧な女優を創造するが、予想以上の人気を得てしまったことで秘密を隠しきれなくなっていく。監督・製作・脚本は「ガタカ」のアンドリュー・ニコル。主演はアル・パチーノ。完全無欠のCG女優“シモーヌ”を演じるのは監督の実の妻でスーパーモデルのレイチェル・ロバーツ。

+SYNOPSIS+
過去に2度もオスカーにノミネートされた映画監督ヴィクター・タランスキー。だが最近では、手掛けた作品が立て続けに失敗し、彼のかつての栄光は見る影もない。また、再起を賭けた新作でもワガママ女優ニコラに降板され、映画会社の経営者で彼の元妻エレインには解雇を宣告される始末。しかし、そんなタランスキーの前に突然、謎の男ハンクが現われたことで状況は一変。ハンクが開発した女優創造PCソフト“シミュレーション1”を託されたタランスキーは試行錯誤の末、CG女優“シモーヌ”を創り出すと、彼女を使って映画を撮り上げるのだった…。そこで・・・。

監督
アンドリュー・ニコル
脚本
アンドリュー・ニコル
編集
ポール・ルベル
アル・パチーノ
レイチェル・ロバーツ
ウィノナ・ライダー
キャサリン・キーナー
エヴァン・レイチェル・ウッド
プルイット・テイラー・ヴィンス
ジェイ・モーア
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REVIEW by 前原一人

まずは薀蓄から。
元女房であり映画製作会社の重役と主人公が語り合う前半のワンシーン。
主人公の監督が語る台詞から出会い付き合ったのはハリウッドで映画を撮る以前とわかる。
それは彼等がNY派について語る下りからだ。
このNY派とハリウッド。
二人が共有できる思い出と言う以上に実はもう少し深い意味合いがある。
ハリウッドの映画製作スタイルと言うのはオールスタジオ撮影、つまりセットで映画一本丸々取れることを言う。
ハリウッドってのは大規模な映画スタジオをと、撮影を可能にするシステムその総称である。
これはNY派へのアンチテーゼから生まれている。
NY派ってのはハリウッドの製作システムが完成したがゆえに特異なものになったといえよう。
なぜならNYでは年がら年中雨が降っている。
オールロケが基本だが撮影が難しいってんでハリウッドっていうスタジオの化け物が出来上がったからだ。
ラース・フォン・トリアーが発起人となり結成された映画製作秘密結社「ドグマ95」というのはその存在自体 ハリウッドへの挑戦だった。
「ドグマ95」は何も俺が秘密結社と呼んでいるのではない。
撮影前には「純潔の誓い」という10からなる教理(ドグマ)に全て従いこれを裏切ることなく作品を作り上げるのだ。
例えば「撮影はロケーション撮影でなくてはならない」や「音楽は使ってはならない」「カラーでなくてはならない。照明は禁止」 等など凡そ自主制作映画か?ってくらいにキツイ。
それと面白いのは「監督はクレジットに載せてはいけない」なんてのもある。
トリアーは今現在ドグマ95を抜けている。
ドグマ時代に撮ったのは確か「イディオッツ」。
閑話休題。
おそらくNYで作り上げた短編映画がアカデミーでノミネートされ、夫婦揃ってハリウッド入りするも、成功は遠のき、 女房は製作会社で着々とステップアップし二人の距離は開いて離婚と相成りましたってニュアンスも含めた会話なんだろう。
さて、アンドリュー・二コルだ。A・二コル。万歳。
「トゥルー・マンショー」で脚本を務め、その後に脚本、監督を務め劇場公開された「ガタカ」。
(製作順は「ガタカ」「トゥルーマン」であるが)軒並み素晴らしい。
ガタカは配役もイーサン夫妻とジュドロウ。抜群の映像美。文句なしの脚本。最高だ。最高。
押井守は一貫して「現実と虚構」がテーマであったりテーマに絡むが、このA・にコルも又「フェイク/リアル」に絡めてきているのは一目瞭然だ。
両者の違いの一つを(あくまで単純化した上でだぜ、ミスタア)探るなら「内面と表層」の「フェイク/リアル」か。
押井は内面、つまるところ主観から逃れ得ないことから発生する現実と虚構を実に素朴に、子供のように素朴に提示する。
おそらく「どっちが、何が、何を根拠に現実と言える?」という投げかけよりも、もっと素朴なデカルトで思考遊戯するような気軽さで「現実と虚構」で遊び、 その立脚点に主観、ようは内面が有している。
一方A・二コルは外面、表層としての「フェイク/リアル」を疑問として投げかけてくる。
観た印象は押井の方がよりへヴィで重く、説教とまでも言わなくともその種の堅苦しさ(これが堪らないんだが)を感じる。
二コル作品は清涼感があり、消費税分程度のテーマ性が残る感じだ。
けれども押井よりも二コルの方が「現実と虚構」という素材に対して遊戯的関心ではなく真摯な問題として扱っているように思えるのだ。
主観的に「これは現実か?」とその現実の脆さを扱うのではなく、
「これは偽者だ」と分かっていながらも周囲はそれを「現実」と捉えオリジナルとして関係していく。
ああ、そうか、「現実と虚構」と「オリジナルとフェイク」を混同していたか。
押井と二コルを対比させて考えるのは間違いではないだろうけれど、ずれてるわ。
現実とオリジナル、虚構とフェイク。いずれも似ているが似ているのはその項同士の関係であって、
現実はオリジナルとイクォールではない。
似ているってことは同じではないってことだ。
この二人の監督の対比で語るのは、無し。

とはいえ二コルは「オリジナルとフェイク」をテーマに扱うってことには変わらない。
いや、変わる。
「オリジナルとフェイク」ってんでなく「真実と虚構」ってのがテーマか。
だったら押井も絡められるから間違ってないんだな。
でも、まあ思考が飛んだから絡めるのはなしだ。
真実が重要となるのは真実がいかなる時力を持ち、力を失うかってことだろう。
虚構が真実の力を凌いでしまった時なんかを思い浮かべればいい。
真実は「力」と関連して初めて重要なこととなる。
「力なき真実」は只の「事実」に過ぎないわけだし。
そうなると真実は事実を何らかの形で力あるように加工された事実なのだろうか。
否、それは「作られた真実(虚構)」であって真実とは何も力を加えなくても力を宿しているものをいうのだろうか。
けれども例えそれが虚構であろうとも、真実に漸近的に近づいた力を持つ現象であれば、 真実と呼びうるのだろうか。
嗚呼!ギブスン!
仮想女優であれ観客にはそれは真実。現実に存在している。正確には真実に最も近い虚構なんだろう。
つっても最後に描き出した「家族の再生」ってのが真実なんだぜってことなんだろうが。でもマスメディア批判よりもガタカのテーマが美しかったなあ。
「愛では君には遠すぎる」ってっかあああ!?うひいい!ああ!渋い!渋すぎるぜええ!!ガタカ観てぇぇぇぇ!

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