パンはバターなしでも存在しえる。
が、夫なしに妻は存在し得ないし、妻という関係性を持たない夫も成立しえない。
このように自立しえず関係性によって成立する対抗図式は「どちら」という問いかけに非常に弱く破綻しやすい。
このことは、「全てが夢」という設問は系自体を破綻せざるをえないことを示す。
「全てが夢」であるならば、夢が夢として自己言及しうる必要性がある。
だが、夢とは「現実」との関係性によってのみ成立しているのである。
夢が、それ自体なんであるかを規定している「現実」を排した時、「夢」は己の体系を維持できず成立しえない。
仮になんとしてでも「全てが夢」を成立させたいならば、メタレヴェルの概念を対置させるほかないだろう。
その力技も放棄した上で「全てが夢」という状況を描いたならば、我々はそれが夢であることにすら気づかないはずなのだ。
以上の長い前口上は前作「スパイダー」を踏まえての話である。
クローネンバーグ前作「スパイダー」ではまさに「全てが夢」という状況を描いた。
が、これが成立しうるのは「観客」がいるからであ