ヴィゴがおっかねえんだ。
瞬きしねえの。
監督のデヴィット・クローネンバーグと言えばこれまでのフィルモグラフィーを見ると一つの流れがあるのに気が付くだろう。
想像と妄想、現実感と仮想。
現実と夢。此方と彼岸、
いずれも日常を送る我々には明確なようでいて、その実境界線は非常に曖昧な対抗図だ。
「こちら」と「あちら」という関係をある立ち居地で眺めたならば非常に厄介なものとなる。
(否、「こちら/あちら」という関係性は在る立ち居地に基づいた物の見方であるのだろう。)
即ち、「ここ」という自立しえる立ち居地を持たないで「こちら/あちら」と考えた時、非常にやっかいなものとなる。
「こちら」とは「あちら」ではないし、「あちら」とは「こちら」ではない。
互いを否定しあうことで成り立ち、また「こちら」というのは「あちら」が存在して初めて成立し「あちら」も同様の構造を持つ。
逆に言うならば、「あちら」なしに「こちら」は存在しえない。
このような関係は「夫婦」でもいえる。
パンとバターのような関係性とは全く異なるのだ。