主人公は語ることで騙ることになり、真に起きたという意味での歴史は主人公と供にグズグズに崩れ、最終的に「語りえないもの」として消失していく。
「映画的物語作法への懐疑」は「黄金の三部作」で「ドグマ95」というトリアーが中心となり結成された映画秘密結社の中で、物語内部ではなく外部に回答を求めたのは自然な流れであったろう。
つまり映画的物語作法を映画の撮影方法により作品を作るのではなく、「ドキュメンタリー」の撮影に近づけた。
撮影方法を限定し作られたのが「黄金の三部作」だったのではないだろうか。
(例えば照明は用いない、全てロケーション撮影、音楽は用いない等など)
「歴史」というキーワードは「アメリカ三部作」においては、主役に内面を語らせない(=騙らせない)主体を廃した「舞台」形式に近づけ、また、役者に極度の緊張と疲労を強いらせる、ほぼ精神分析学的実験に近い形で彼らに役作りならぬ人格形成を迫り、その彼らに状況、環境を与え歴史を再現するような試みなのではないだろうか。
トリアーについてやたらとながくなってしまったが、監督の作家性というか、「流れ」をこのように俺のバイアスをかけてみた時、塚本監督はいかなる流れを作品にしてきたか見ていきたい。