「ワイズワン」ジョン・コルトレーン アルバム「クレッセント」より
音楽との奇跡とも言えるような共感を体験した事はあるだろうか?
僕はよくジャズのCDに耳を傾けるけれども(本来なら音質的にもレコードの方がすぐれているに違いない)、その中で俗に名盤といわれるものが数多く存在する。
例えばコルトレーンをとってみても、
「至上の愛」、
「バラード」、
「ブルートレイン」、
そしてマイルスのセッションに参加した「カインド・オブ・ブルー」などなど、枚挙に暇がないぐらいだ。あるいはボーカル入りのアルバム「ジョンコルトレーン&ジョニーハートマン」も実にいい。
コルトレーン一人ですらこうなのだ。たかだか誕生して100年程度になったぐらいの音楽にもかかわらず、ジャズは偉大なミュージシャン、アルバムを本当に数多く出してきたものだ。
「滋味」といえばいいのだろうか。音楽に神経を集中させていると、流れる音の背景に、何かが起こっているように感じる。その深い一瞬の中で、何度聴いても汲みつくせない何かの存在を感じる。その「何か」について少し語ってみたい。
僕の体験はこういうものだ。
一回目はマイルスデイビスの「カインド オブ ブルー」だった。そのなかの「フラメンゴ スケッチ」という曲を聴いているとき、その緊張感としか呼びようのない音の組み立てに思わず身体が反応し、僕は自分の耳を疑うことになる。
身体の芯が揺さぶられるといったものだろうか。「楽しい」「悲しい」といった感情に浸されたり、ロックを聴くときの昂揚感とも少し違う。そこに流れる音や空気を通じて、感情のもっとも深い部分を撫でられたような感じだった。
たった一瞬の出来事だったが、それに気づいたとき、僕は驚いてもう一回繰り返して聴いてみた。勘違いでもなかった。この音の組み合わせには間違いなく「何か」があった。
そこには「こうあらねばならない」という、目には見えない必然があって、各自が協力してそのムードを作り上げているようだった。気がつけば僕は、その必然の音に深く包まれ、どこか遠くに連れて行かれていたのだった。
コルトレーンのアルバム「クレッセント」は、有名なアルバム「バラード」と、スタンスは近いながらも、また違った色合いのアルバムである。いわゆる酒を飲みながらの、リラックスしたバラードではなく、コルトレーンが音楽を通じて何かを追求した結果、バラードに近い音になったという方が正しいような気がする。
アルバムを聴いてみた最初の感想は、コルトレーンのフレーズの必然性が分からないということだった。なぜ、ここでこんなフレーズになるのか、なぜこんな風に音を伸ばすのか、とにかくフリージャズに近い演奏で基本となるフレーズを繰り返すわけではないから、親しみやすいメロディーが心を打つわけではない。
その二曲目、メランコリックなピアノが印象的な「ワイズワン」を聴いているとき、以前感じたあの心を撫でられる感覚がまたよみがえってきたのだった。あの時と同じだった。 ここまでの深い音との交流は思い出せる限りで、この二回きりしかない。
こんな事を僕は思う。
もしも、これらの演奏が最初から最後まで、プログラミングで制御されたもの、あるいは完全に楽譜で統制されたものであったならば、ここまでの緊張感は出せただろうか、と。
メロディーを伝える。これは音楽の第一歩だが、それをどのように解釈し、演奏するかはまた別問題である。わずか一瞬の弱いピアノのタッチ、サックスのタイミングのズレ、人間が奏でる限り、厳密には同じ演奏というものは二度と存在しない。
が、これは断言できる。演奏者の意図を超えて、何かしらの予想外の力が作用したときに、作品は輝きを帯びるのだ、と。
もしかしたら即興演奏とは、この予想外を呼び込む一つの効果的な手段なのだ。無秩序になる可能性を秘めつつも、うまく飛翔するとき、それは他にはないぐらいの、どうしようもない魅力的な深遠を覗かせる。ジャズとは、音符の中に込められた起爆剤だ。
いつの頃からか、本当に聴きたい音楽は部屋の中で流すのではなく、夜眠る前に聴くようになった。目を閉じて、ただ音に集中するのだ。例えば、僕が今日取りあげた曲を後ろで流していたとしても、おそらくその魔法は現れてはくれないだろう。もしもこちらが音の滋味を味わおうと欲するのであれば、こちらも耳を澄ませる必要があるだろう。
岡本太郎がこんな事言っていた。
「作品を見るのは、一種の勝負。対峙だね。ああ、きれいだね、ではなくその作品とこちらが真剣に向かい合って初めて何がしかのものが受け取れる」
だからできれば、あなたも目も閉じて、音だけに集中してみるといい。そして音と音の間の、何も聞こえない暗い真空にも耳を澄ませてみればいい。本当は無音の間も音は流れているはずだ。クラシックでも何でも、そこにある音に集中し、奥にあるものを見つめることで、コルトレーンでもマイルスでも、成功した場合には、こちらが信じられないぐらいの滋味を与えてくれるのだ。
そして僕は、その恋にも似た瞬間を求めて音楽を聴き続けるのだ。
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