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父子像 (異形コレクション 怪物團 収録)2009年:光文社文庫
ジャケット

+INTRODUCTION+
(前略)一貫して怪奇幻想の文法を強く意識した創作に徹していたが、その素質は、本作にもにじみ出ている。地味ながらも、怪奇小説が持っている本来の手触りを、愉しんでほしい。
(出展:異形コレクション 怪物團 「父子像」扉より)

著者
朝宮運河
監修
井上雅彦
出版社
光文社
ISBN-10
4-334-73638-4
ISBN-13
978-4-334-73638-4
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REVIEW by 前原一人


それなりに親しい。が、彼が何を書くかは分からない。毎度驚かされる羽目になる。
確かに、俺の知っている友人としての”朝宮運河”を展開し、作品と照らし合わせもっともらしく解説(かつ代弁を装い)レヴュウを書けばそれなりに耳目を集めるやもしれん。
とは言えそれこそ縁を切られかねんし何より一読者として(かつ相応の贔屓目を抹消しきれずに)「友人の書いた作品」としてではなく朝宮運河の新作のレヴュウに取り掛かりたい。
勿論、抜きん出た男に対する嫉妬を読み取ってくれても構わん。では、行こうか。

以前他のレヴュウでも触れたが「現実と夢」の在り様について定かにすることから論を始めたい。
狙いとしては幻想と妄想の暫定的な区別と、今作がどちらに寄った作品なのか、また幻想と妄想が指し示す物語の在り方の違いを導入に本稿を進めるのが狙いであるからだ。

パンとバターは、他方の在り様に左右されない関係性である。一方、現実と夢の関係性は相補的関係である。夫と妻のように他方に先んじて在ることは適わず、双方は同時的に在る。他方が消え失せたなら、現実にせよ夢にせよその意味を失う。「全てが夢」と言いえるのであれば、それは”夢”である以前に”現実”であることと何ら変わりなく、”夢”がそれである意味も効力も失われてしまう。
奥村敏「反デカルト的省察」ではデカルト「省察」に倣い懐疑を深める中、「疑うこと」そのものを可能とする懐疑に潜む暗黙の前提を明らかにしていく。「部分的懐疑」から「全面的懐疑」へは量的な変化ではなく質的な飛躍が存在し、「全てを疑う」前提、可疑性を支える隠された項が存在するのを暴いてゆく。奥村はここで「身体への確信」を論理的に進めつつ、懐疑に先立つ隠蔽された項として「痛みへの気遣い」という実存的在り方を抽出して行く。
現実と夢の関係性が問題となりうる「全てが夢」という状態は、量的懐疑から質的懐疑への飛躍を可能にする可疑性を支える隠された第三項、身体への確信/痛みへの気遣いを隠蔽することにより可能となる、とも言えるだろう。
現実と夢はパンとバターのような関係性ではなく、夫や妻、親と子のようにある。
また、全てが夢、と言い得てしまう際には身体への確信/痛みへの気遣いといったものを隠蔽し排除することでのみ成立しうる。
現実と夢と相補的関係にある内の夢を幻想と呼ぶならば、後者のような夢が現実を浸食してしまうような在り様を妄想と呼べるだろう。
夢(幻想)には現実の悲惨さを乗り越え死への欲動に打ち克つ生への衝動が伴う。
人は他者の欲望を生きる社会的生物であり、他者を排した要望としての他者(妄想の内の他者)にこのような力はない。
朝宮運河の描いた20枚足らずの短編がこうも胸を打つのは甘やかな妄想ではなく、強固な幻想を確立しえているからだろう。

今作は父と娘の物語である。
ここで重要なのが父と娘の関係性にのみ終始するのではなく、「老人」としての第三項が隠蔽されることなく描かれていることだろう。
今作はこう言い換えることができる。老人と、父と娘の物語、と。
物語の舞台は郊外。二人の暮らす廃屋とも見まがう家屋のそばには線路が走っており、遮断機を伴った踏切がある。
踏み切りは境界線を暗示する。遮断機を境にあちらとこちらに世界は分断されているのだ。
あちら側には孤独な老人が住み、こちら側には父と娘が暮らしている世界がある。老人は言わば上がり下がりする遮断機と同じくあちらとこちらを穿つ窓であろう。
そして、踏切が分断するあちらとこちらとはインサイドとアウトサイドである。インサイダーとしての孤独な(時折)騒がしい老人の日々と、アウトサイダーとしての激しくも静かな父と娘の暮らし。
こうして踏切が象徴するインサイドとアウトサイドという分断、また、隠蔽されることなく描かれる老人の存在が、アウトサイダーとしての父と娘を露にし、そこで描かれるのがモンスターであるよりもフリークスとしての哀しさを纏うのだ。
必然(俺にとっては、だ)思い浮かぶのはヘンリー・ダーガーという愛すべき人物だ。
彼は幼い頃精神薄弱児収容施設に移されるもそこを抜け出し、一人清掃夫をして暮らしていた。彼は小さなアパートに住む孤独な老人と思われていた。死後、片づけをしに部屋を訪れた大家はダーガーが60年にわたり創作し続けた15,145頁に及ぶ長大な物語を発見する。現在「非現実の王国で」と冠されている全15巻からなる挿絵付物語である。子供奴隷を酷使する残虐非道な大人とそれに対抗するヴィヴィアンガールズの7姉妹の物語が描かれているのである。
世間では孤独な老人であったヘンリー・ダガーはその扉の向こうでは誰にも想像の及ばない世界を紡いでいた。
「ハイブリッドや突然変異たちを、傷つきやすい幼年期に守るのが守護神の役割」(W・バロウズ「内なるネコ」)
まさに彼は「非現実の王国」の守護神であったのだ。
そうしてまた、ここでの老人/父も守護神たろうとしたのだ。

最後に、優れた幻想は一つの感情に一元化しえない。いわゆる怖い、泣けると言うだけでは物足りない。
美と崇高さの絡み合ったピクチュアレスクな幻想譚。それでいて甘やかさを排した強固な幻想譚という意味での新しいゴシックと言えるのではないだろうか。


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