なぜ、このタイミングで筒井康隆なのか。そしてなぜ、その中でも『筒井順慶』なのか。深くは考えないで戴きたいが(そんな暇はないでしょうね)、兎にも角にも、この作品の凄まじいのは、いかに滑稽に且つ過激に60,70年代の日本をパロディしてるか、なんて処ではない。作品が持つ強烈な勢いとブッコワレ加減が、この作品がモチーフとしている事象に対して時代錯誤を感じる現代だ、か、ら、こ、そ、読む者に対して、そのベクトルを増して突き刺さる。此処だ。筒井康隆のパロディ精神とは正に痛快な串戯なんだが、それはかなり恐ろしい。そのハイライトである『筒井順慶』掲載の短編「新宿祭」や金嬉老事件をネタにした「晋金太郎」などを読むと、バブリィでフォーキィでゲリラな“戦後昭和”を知らん人間でも、かの狂喜乱舞の時代背景とムヤミヤタラなモーレツ高度成長で錯乱状態に陥った、現代日本の原点を痛感するに至るのだ。
それに昭和史実の認識など省いても、単純にSFだと思って読めば、昭和やら団塊やらの呪詛なしに、何処かの奇怪な國の軽快な人間模様、否、殖産機械/欲望機械のハードコアでリズミカルな三文喜劇を覗き見れるのです。
そんな筒井康隆という作家の大胆さをこの作品で、と強いる事はしないが、僅かながらに知って欲しいと思うのです。
|