実に久しぶりに弐瓶勉の単行本『アバラ』が発売された。わたしはこれを、当サイト管理人から教えてもらったのだが、一気に読んだ。
まず根本的な認識だが、二瓶氏の魅力は、彼が描く世界が〈再生〉ではなく、〈終末〉へと向かうそのベクトルの中にある。命が生育し、種が増えていくプロセスがエロスなら、無限増殖する構造物や、意識だけがダウンロードされたモノたちはいわばタナトスだ。
例えば『BLAME!』ではひたすら建築物が無制限に増殖し、侵食してゆくという世界設定だったが、増え続ける階層や階段たちは、もはや人間のために建築されているわけではない。それこそバグのように、「増やす」というプログラムを繰り返しているだけだ。何かに向かい生育するというエロス的な動きを見せながら、結局は何も生み出していない。無や死というタナトスの世界の中で、世界は混沌な空回りをしている。
この空回りが、作品に特殊な空気を与えている。弐瓶氏の世界のなかに、木々や花、山など自然の風景が見当たらないのはそのためだ。そこは秩序なく乱立する建物が見えるだけなのである。人々は組織には属するが、近所付き合いやコミュニティが作品内で強調されることはない。つまるところ、異常進化しすぎた都会の姿なのだ。
その徹底的に無機的な世界観、それをもう一面で支えるのが弐瓶氏における「時間」の扱い方である。
『BLAME!』にせよ『アバラ』にせよ、時間はすでに力を失っている。命にリミットを設けるという絶対的な制約を人間は超えてしまった。
弐瓶氏の作品では、意識だけダウンロードされた無機物が登場する。『アバラ』では、ライターのような小さなユニットや、鳥の骨が〈人間〉として登場する。彼等は意識も判断力もあり、もとは人間であったと伺えるが、人間が生き延びるためには、もはや自己の身体を必要としないことをこの事は示している。この仕組みは同時に、永遠とも思える時間を人間が手に入れてしまったことをもあらわすだろう。
長期的な生命という概念はSFでもよく見られる手法だが、弐瓶氏の場合、この時間が普通の作家より並外れているのだ。個人的な存在が長期的な時間を過ごし、特別化するのではなく、それらはもはやありふれたものとして扱われている。
いわば世界全体が長期的な時間の中に組み込まれているのだ。過去の遺物は、遺物のまま次の時代へと受け継がれてゆき、やがてそれは、何のために存在するのか不明のまま、無機的なオブジェとして世界に残ることになる。
『アバラ』における「恒差廟」などがそれに該当するだろう。冒頭――――
その塊はあまりにも古くから そこに存在したために 殆どの人が
地形の一部だと信じていた
と作品の主要な鍵となる建築物「恒差廟」が説明されるが、現在と過去が混じりあい、一種独特の世界を形成するためにも、この時間の扱い方は特徴的である。
狂った時間は特殊な世界を形成する。人は成長を止め、機械のみが増殖していく。エロスとタナトスの逆行だ。しかし、これは間違っている。この世界は正常に機能していない。それだけに、どこかで破綻する。その破綻はやがて巨大なカタストロフという爆発を導く事になるのだ。
あらゆるものの終わり――それが世界の終末だ。そこでは一切の価値、感情、築き上げて来たもの、モラル、時間すらが消える そのカタストロフをもたらすのが、無機質の暴走ではなく、もとは人間である有機の暴走と言うところに弐瓶氏のドラマがある。
人間の身体がいくら破壊されても再生するような世界(事実、『アバラ』の主人公とも言える電次も那由多も一度死んで、復活させられる)、人がモノに限りなく近づく世界では、有機と無機を分ける要素は感情ぐらいしかない。
ひそやかに流れる感情は、言葉で説明されるのではなく、コマの動きを通じて我々の想像力に訴えかける。弐瓶氏の作品には、会話は非常に少ない。その分、我々は絵を通じて、世界を補完しなければいけない。このあたりは「バンド・デ・シネ」の方法論の影響があるのかもしれないが、その辺りは前原氏にいずれ問うことにしよう。
はっきりと描かないものは、そのぶん想像力に訴え、我々はその空白に自己の感情をあてがおうとする。悲しみや、慈しみや、喜びや、愛情を、あるいはそれ以外の考えられる感情を。一枚の絵が世界を語りうることは十分にあるのだ。
感情。
『アバラ』では那由多の姉妹、阿由多が暴走し、これがカタストロフの引き金を引く。詳しく説明するのは控えるが、彼女の動きが世界終末の鍵となる。
世界の終わりの後に何が残るのか、その後の沈黙をも弐瓶氏は描く。『BLAME!』における巨大な夢のようなあのシーン、『アバラ』における脱出後の世界。
それは夜で示される。
「わたし達はこんなにも寂しいんですよ」とは言葉に表さずとも、絵が語る。
星も、光もない、どこかの惑星のようですらある暗闇の海岸で、生き延びた二人が遠くに立っている。このシーンを見て、音を想像するものはいないだろう。そこは常に沈黙と、絶対的に救いのない孤独に満ちている。絵の力とはそういうことだ。
世界終末のカタルシスと、絶対的な沈黙。この両極端の動きにこそ、我々を惹きつけて止まない何かが隠されていると思う。〈世界の終わり〉あるいは〈世界の果て〉という概念に惹きつけられてもう随分になるが、いみじくも世界の終わりを描いたタルコフスキーの映画「サクリファイス」「ノスタルジア」の作品でも、世界は終末を孕みながら、沈黙に包まれていた。(「サクリファイス」の空中浮遊のシーン、「ノスタルジア」での世界を救うために火のついた蝋燭を手に川を往復するシーンなど、いずれも沈黙とは切り離せない)。しかし、タルコフスキーが示すベクトルは世界再生へと向かっていた。
弐瓶氏はそれとは逆である。世界は破滅し、人は消える。そして我々は世界の「再生」か、世界の「終末」の狭間にいる。エロスとタナトスとの間で、弐瓶氏は大きなタナトスを描き続けている。繰り返すがこれは「終末」の漫画なのである。
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