俺が生まれる一年前。77年セミプロジンUnearth(アンアース)3号にウイリアムギブスンの処女作、「ホログラム薔薇のかけら」が掲載された。
「パーカーは暗闇に横たわり、ホログラム薔薇の千余のかけらを思い起こす。
ホログラムの特製からすると、あれを回収して光に当てれば、
かけらがそれぞれに薔薇の全体像を現すことになる。
デルタ波に落こみながらパーカーは、自分自身を薔薇と見る。
おのれの散らばったかけらのそれぞれに、自分ではついには知り得ない全体像を現している―
盗んだクレディットカード―燃え尽きた郊外―見知らぬ女の星の合―
高速道路で燃える戦車―平らな麻薬の包み―コンクリートで磨いた飛び出しナイフ、
悲痛なまでの薄刃。」
(ハヤカワ文庫ウイリアムギブスン著「クローム襲撃」収蔵「ホログラム薔薇のかけら」83頁)
処女作をその後のギブスン作品全てがアーカイヴされた物と捉えるのには無理があるし、できすぎている。
けれども、表題にならいギブスンと云うホログラムの千余に砕かれた一片として見た時、否応なしに気付かされる彼の諸作の全体像が垣間見えた気がした。
本短編にある特徴と、他ギブスン作品に共通するモチーフを抜き出し、それらを並列し、それをもってアーカイヴされたギブスンとして展開したこととするならば、
それはここで試みる「ホログラムが投射する全体像」に反するだろう。
では改めて、このホログラムのかけらが投射する全体像とはどのような映像だろうか。
ある対象を認識する、「像」を「像」としてとして我々が捉えうるためには同時に「背景」も現れていなくてはならない。
このゲシュタルトはいかに形成されうるか。
いやいや「ゲシュタルトとはそんな簡単な概念じゃあない」とか横槍が入りそうだが、「認識の条件」と幅のある考え方をして貰えればそれでいい。
俺は幅のある考え方が好きだ。
それと何か物事を考えようとする時、対象と「対象を対象としうる背景」を想定して考える。
当然背景は対象と同化するようじゃ背景とならない。白いカンバスに同色の色を置いても「見えない」。だろ?
白い絵の具がまず、「見える」ためには相応のカンバスが不可欠だ。
ここで気を付けたいのは白の横に黒を置く二項対立ではない。
白い絵の具から、カンバスに目を移したとき、今度はカンバスが捉えられ白い絵の具が背景となる。
そうした時、今度はカンバスが対象となっている。
二項対立による考え方との違いは、同時に対象として扱えない、ということの面白さだ。
焦点を向けたほうが図として浮き上がり、他方は背景として沈む。図と背景両方を同時に思考することはできない。
仮に両者を同時に思考できているならば新たな背景を両者の下に敷いた、ということであり、自分でも知らず新たな要素を呼び込んだこととなる。
展覧会で絵を眺めている時、絵自体が目に飛び込むのはそれを囲う額縁の存在のお陰だ。仮に額縁を含め絵を鑑賞しているならば、美術館の壁が背景となっている。
それにどんな風に白いか、ってのはカンバスに左右される。
白い絵の具を語るにはカンバスへの注目も欠かせないと思うのだ。
二項対立だと白と黒に対して、「これは黒じゃない」「これは白いじゃない」と正しいけれども何も言っていないという自体に俺はよく陥ってしまう癖がある。
「白は黒くないのだ」と結論を出して挙句考えた気にはなるのだが、そんな時の俺は実のところ、何も考えられていないのだ。
戻そう。
本編の砕け散ったホログラム薔薇のかけらになぞらえ、主人公パーカーは「ぼく」のかけらから自分の全体像を見て取った。
ではこの「ぼく」を図として浮かび上がらせる「背景」は何だろうか。
それはパーカーがそれまでホログラム薔薇のかけらを自身に見立て、見出していた「ぼく」から、
「ぼくを浮かび上がらせる背景」に焦点を結ぶことで現れる。
「歴史とはデルタ波誘導装置の黒い表面と空っぽの戸棚とベット。
歴史とは、電力が落ちたとき目醒める完璧な肉体への呪詛、ペダルタクシイの運転手への怒り、
そして彼女が汚染雨の中で振り返ろうとしなかったこと。」
(同書84頁)
「背景から反転し、図として浮かび上がるぼく」を成り立たせていたのは、「ぼく」主人公パーカーと「振り返ろうともせず去った」アンジェラによる「ぼくら」だろう。
背景から反転し図として「ぼくら」が躍り出てくる。
「ぼく」と「ぼくら」はある一点で合致している。
それは不在により存在感。
消え去り、失われゆくことを描くことで、それは存在感を得る。
燃え尽きる風景、前進することのない戦車、交わらないゾディアック、思い出としての怒り、振り返ろうとしなかった彼女。
感情ですらその時に沸き起こった感動ではなく、失われた輪郭を引くことで感情が表れてくる。
この僅かなページのギブスン処女作が投影する全体像、それは、失われゆく様を描く、痕跡を描く作家、と云うギブスン像が垣間見える気がするのだ。
現にある存在を描くのではなく、失われた存在、不在を描くことで、読むものには肉薄しきれない感覚を与える。
ニューロマンサーを読むたび感じる人物と街の輪郭の曖昧さ。
キャラクターを描く、人間を描く、と呼ばれる際、求められているのは「肉薄しろ」ということだと、俺は思う。
その状況、環境に置かれた人物らが感じる様々を丁寧に描くこと。
その肉薄した描写が読むものにキャラクターへのリアリティを与え、人間を描くことになるのだ、と。
クソ喰らえ。
「喪失感」として肉薄させるのではなく、自分から何が奪われ失ったかを描く、それまで、そして今も言われ続ける「人間を描け」と云うあり様から斜めに切り込むこの描き方こそ、
よくなじむ。
思うのだけれども、
人を精神的に豊かな、内の充実し、感情を自ずと把握し、状況や環境に感情を抱きつつ生きるものだ、と捉えるのには、俺にはどうにも無理があるようだ。
肉薄して描かれてもかえって俺には程遠い存在として映る。そんな充実したイキイキした人じゃない。
自分を覗き込めば即虚無にブチ当たるか、借り物の感情に気付かされている俺としては、皮肉にも肉薄しえるのはギブスンの描くオートマチックジャックやケイスだったりするのだ。
おそらく俺が読み取った「ぼく」と「ぼくら」の共通した項を成立させるのは、今ダラダラ書いたような俺自身が背景となっているからなのだろう。読書は個人的なものだ。
閑話休題。
思いのほかズレた?いや、ズレちゃいないのか。
要約すりゃあ処女短編「ホログラム薔薇のかけら」に俺はギブスンの全体像を垣間見た、と。
でもってそいつは「消え去る失われた姿で描く」ってこと。「不在による存在」。「なくなった」ことで「あったはずの何か」が強烈に描かれているってさ。
感情ですら、ね。
ほら、「アグリッパ」とか、さ。どう?
勿論そう読ませるのは「俺」という背景がそうさせる。だからこの文章を読んで「ああ、そうかもね」と思った人は、似ているのかも。
肝心なのは「似ている」ってことは「同じじゃない」ってこと。
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