写真 【毒は…ねえ君、どこに行こうと勝手なんだが、避けてるものこそ好きになる、ってかあハマったりするんじゃないかねえ。】
近年体内の毒を出すという目的の、排毒療法とでも言うべきリフレクソロジーやデトックスなんていう美容健康療法が巷の話題になっている。いわば現世は“排毒ブーム”なのである。或る飲料のテレビコマーシャルで山崎努が「私の身体のよからぬものが、ジョジョビジョジョビジョビジョバァー」とモーゼらしき格好で唱ってるのがあったが、あれはまさに圧巻で、“排毒ブーム”のコピーライター的修辞の諧謔味を大いに知らされた。
とは言え、人は完全にその毒を除去できるほど聖なる精神肉体管理の土壌を持ち合わせてはいるわけではない。予め俗な身体機能を荷なわされているのだ。よからぬものの上澄みだけ除去できれば、生活上困ることや当面の健康状態は維持できる。ただ怖いのは残滓として残った毒の蓄積が、癌だの生活習慣病だののファクターとなってしまうことだ。 ここからは根拠なき見解になるが、人とはもともと、毒とは縁を切り離せない生活形態の持ち主である。しかしこの場合の毒は、かなり広義なもので、例えば悪友に吹聴されたしょうもない言説や、消費者金融の広告、パチスロギャンブル周辺の自慢話、意識集中の妨げとなる厄介物、嗜好品、フェティッシュ対象物、ダダ芸術、暗黒舞踏、映画で言えばフィルムノワール、スラプスティクコメディ、仁侠映画など人夫々で異なるがそんなものも毒と言えよう。ここでいう毒は、まあ薬か毒かという二項対立以前の問題で、先に毒の受容があって薬が誕生したのだと言う極自然な見解から行けば、人類はまず毒の受容と発見を体験しているのである。薬はあくまでも毒の受容に対する対症療法の媒介物であり、人類は毒をそれより先に絶対無二の悪魔的存在として、踏ん反り返らせていたのだ。いや中には本末転倒だが、阿片やハシーシュのように、毒が悪魔だと知ったのは薬としての効能があるからと思い手を出し、結果的には毒だったというものもある。
毒は死の旅路へも誘うが、反面魅力的である。この二律背反性で人類は毒とより縁深くなった。先人や何かの映画の台詞じゃないが、「体には少しだけ毒を入れといた方がいいでしょ(映画の台詞の場合“女は…”となってる場合が多い、殊に悪女が胡散臭く使うんだな)」というのも人間の毒嗜好からきてるのだろう、と。
さて、先にも記したが音楽にも排毒/有毒(造語だが加毒ってした方が対っぽいな)がある気がする。いや、そもそも排毒効果のある音楽なんてあるのかという疑問が先に来るが、それも人夫々で、私の場合、俗にストレス解消などで大音量で激しいテクノやノイズ、交響楽を聞く時にその類いの音楽に排毒効果を感じる。
ブルータルデスメタルやハードコアが有毒だと言われるのは、殺意や死、譫妄、幻覚、思想偏向、異常性癖を叫ぶことに、公序良俗を乱すイメージがまとわりついてるからだろう。とは言え、無毒を装う音楽こそ有毒だったりするから面白い。全面ポジティブを露呈しても、毒素を消してるというより、毒を持つ恥から間違った開き直りに代わってるようなことが有り得るし、そもそも毒を持つ恥ってなんだ?と思う。「毒」という字の部首(旁)は「母」なんだぜ。所詮逃れられんのだ。ならば絶対的な聖母幻想の中で、無味乾燥なビオトープで住めばいい。ビオトープにだって毒虫はおるのだよ。ブルーハーツの批判的継承を。いや、パンクスならまず思いきりぶっ壊れて、飢えて、毒を呼吸し、吐け。話が逸れた。
まあそういう紋切り型な談義はさて置いて、音符を生殺しにした演奏家達の醸す毒は果てしなく強烈である。時々、鋭利な刃物か?とも思わせる感触で迫るビートそしてリズム。服毒後の唸りのように歪み狂うギター達。音楽が繰り出す毒性は果てなく精神の抑圧を告白し、解放へと導く…とまるでロッキングオンみたくなったが、効能は千差万別とはいえ、あれほど感情に訴えかける毒っぽい代物が有ろうか。
その及ぼす効果というものを惹句に出没する音楽の醸す予定調和の毒性や排毒効果はもはや音楽を解体した。癒し、リラックス、脳力増強、市場に並ぶ似非アシッド類、泣き、笑い、痛みの除去、救い、似非煽動、似非暴力、似非糾弾。本当は皆大きな御節介なのだ。あんたはあんたで、あんたの毒と邂逅すべきだし、そこに効果を示す惹句があったとしても、鵜呑みにして思い込むぐらいなら、音楽から離れて一度自分の廃れた魂の欲動を、遠くの何処か静かなところで仮想してでもいいから感じ取ってこればいい、と。最近私は自分に言い聞かせてるのです。


(Y.K.)